東大寺 修二会の声明

二月堂お水取り−行と祈り− 
[第一部] 26日6時開演
初夜、半夜 
おはなし 上野道善(華厳宗管長 東大寺別當)
初夜の悔過作法/初夜の大導師作法
初夜の咒師作法/半夜の悔過作法

[第二部] 27日2時開演
走り、後夜、晨朝
おはなし 上野道善(華厳宗管長 東大寺別當)
走り/後夜の悔過作法/後夜の大導師作法
後夜の咒師作法/晨朝の悔過作法
出演=華厳宗大本山東大寺

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2803.html

東大寺で行われている修二会を再構成したもの。二月堂の内陣を再現した大道具において声明や行を行うのを聴聞した。

まず、とても美しい行法であることが印象深かった。暗い舞台中央の須弥壇の上で揺らめく何本もの蝋燭の焔。蝋燭の薄明かりを受けて煌めく黄金の仏具。ぼおっと浮かび上がる赤い椿の造花。薄く透き通った白い戸帳。戸帳に移ろう練行衆の影法師。朗々とした声明。素朴な法螺貝や金剛鈴の音色。鋭く響きわたる差懸(下駄の一種)の音。――良弁の高弟でありインド人であったという実忠和尚が修二会を始めた1200年前、宗教と音楽と美がとても近い、密接な関係にあったのだ。

さらに私が感銘を受けたのは、声明の内容だった。最初に結界を作り、御堂を聖なる場所とし、「南無観自在菩薩」と御本尊である十一面観音への帰依を誓い、自己や他者の罪業を五体を打つことで懺悔する。「尾切(おぎり)」「小鷹(こだか)」と呼ばれる法螺貝が南北で掛け合いを行うと、その後、神名帳の読誦が始まり、ありとあらゆる大菩薩、大明神、御霊神を勧請し、その後、過去帳に記載される者――その中には聖武天皇をはじめとする東大寺に縁のある人々だけでなく、阪神淡路大震災の犠牲者までも含まれていた――の成仏と、日本国民のみならず世界の人々の平和と安寧を祈るのであった。

東大寺の修二会において世界の人々の平和まで祈っているというのは、私にとっては深く考えさせられることだった。「祈る」ということの意味を今一度、噛みしめてみたくなった。実際のところ、「祈る」ということは何ら実効性の無い行為だ。祈ったところでイラクでのテロは無くならないし、飢えや乾きに苦しむ人を癒すこともできない。CO2も減らない。しかし、それでもなお、奈良時代から1258回も一度も途切れることもなく代々の練行衆達が祈り続けてきたということは、尊いことだ。

人と祈りの関係について、しばらく考えてしまいそうだ。