国立能楽堂 普及公演 狐塚 綾鼓

解説?能楽あんない 綾鼓のバリエーション  増田正造(武蔵野大学名誉教授)
狂言 狐塚(きつねづか) 大藏千太郎(大蔵流
能  綾鼓(あやのつづみ) 松野恭憲(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2498.html

この「綾鼓」は、三島由紀夫の「近代能楽集」に翻案された作品「綾の鼓」があるという。そう言われて思い出した。多分学生時代か働き始めた頃、まだ能楽をはじめとした古典芸能のことなんか全く知らなかったし興味も無かった時代に「近代能楽集」を読んだ。そういえば、確かに設定を変えた「綾鼓」のようなお話だった。読んだ当時は、かなり衝撃的で前衛的なお話だと感じた記憶がある。また、何百年も前に作られた物語がこんな前衛的な筈はないという思い込みから、恐らくかなり原曲を改変しているのだろう、とも思ったことを覚えている。しかし、こうやってお能の「綾鼓」を観てみると、記憶の中の三島の「綾の鼓」とはかなり似ている気がする。むしろ、三島の「綾の鼓」の方が直接的に「綾鼓」の不条理さとかシテの気持ちを実感できるかもしれない。
今、手元に「近代能楽集」は無いけれども、他に「邯鄲」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」「道成寺」「熊野」「弱法師」があるようだ。タイトルを見ても全然どんな話だったか思い出せないのだが、もう一度読み返してみたい気がする。


狐塚(きつねづか)  大藏千太郎(大蔵流

主人(大蔵彌太郎師)から鳥追いをするよう言われた太郎冠者(大蔵千太郎師)と次郎冠者(大蔵基誠師)。狐塚と呼ばれるところで鳴子を使って鳥追いをする。畦で区切ったように主人の田圃だけ豊作であることに感心したりしているうちに日も落ち、二人は田圃にある小屋で休むことにする。するとそこに、二人を労おうと主人が酒を持って現れる。ところが主人を狐が化けたものと思い込んだ二人は狐に化かされまいと様々に言い繕い主人が油断するのを待ち…というお話。

「狐塚」を見るのは二回目。この前観た大槻文蔵師の「鳥追舟」も鳥追いのお話だった。鳥追いというお仕事は、この当時は誰でも知っているありふれた作業だったのだろう。鳴子を鳴らしたぐらいで飛んでってしまうのであれば、昔の鳥達は今の都内のカラスなどと違って随分繊細な質だったのかも。


綾鼓(あやつづみ) 松野恭憲(金剛流

皇居の御庭掃の老人(松野恭憲師)が、ある女御(廣田泰能師)を見て一目ぼれをしてしまう。それを知った女房は桂の木の枝に綾を張った鼓を掛け、その音が鳴った時には姿を見せようと言う。舞台の中央には桂の枝を飾った立木台と桂の木に掛けた鼓がある。

老人は鼓を打とうとするが、綾で出来た鼓なので当然音は鳴らない。老耳の故かと思うが、池の波や雨が窓を打つ音は聞こえるのに、綾鼓だけがどうしても鳴らない。嘆いた老人は桂の池に身を投げてしまう。

老人は小尉という老人の面を付け、茶の水衣、納戸色の着流しを着て、箒を持っている、普通のおじいさんスタイルだった。昔の貴族や皇族は、寺院と同様、童子のような人々を擁していたというので、この場合も、お庭の掃除人なので、おじいさんとはいえ童子だったりしてと思ったが、コスチュームからしてそういう訳でもなく普通の貧しい老人ということのようだ。

老人が身を投げて中入りとなると、間狂言では、アイが立ったまま今までの出来事を総括する独り言を言い、ワキの臣下(殿田謙吉師)に報告に行く。


一方の女御は、その老人が身投げしたことの報告を受け、桂の池の方に行ってみることとなる。池まで行くと、女御は突然、「いかに人々聞くかさて。あの波のうつ音か。鼓の声に似たるはいかに。あらおもしろの鼓の声や。あらおもしろや。」などと言い出し、狂ってしまう。実は、老人の呪いだったのだった。

そしてこの老人が無茶苦茶恐ろしいのだ。面も大尉にグレードアップ(?)するし、鉄鎚も持つ。他に白地の法被に金欄で文様(何の文様かは不明)、紺地に金で青海波の半切。頭もぼさぼさの黒頭。仁王立ちの立ち姿も恐ろしいし、信じられないことに、打杖で直接、女御に襲いかかるのである。まるで熊みたいに獰猛なのだ。「葵上」では六条御息所が葵上の象徴としての唐織に威嚇するけど、綾鼓みたいに実際の人に威嚇する方がずっと恐ろしく感じる(大体、危ないし)。

そして女御に怒っているのか、自分に怒っているのか分からないくらいに怒りや憎しみを表現する。「冥途の刹鬼あおう羅刹。/\の。呵責もかくやらんと。身を責め骨を砕く呵責の責といふとも。これにはまさらじ恐ろしや」とか、「紅蓮大紅蓮となつて。身の毛もよだつ波の上に。鯉魚が踊る悪蛇となつて。まことに冥途の鬼といふともかくや」とか、お能は素敵な詞章もたくさんあるけど、こういった恐ろしい言葉にも事欠かない。

そして、最終的にどうなるかというと、「あら恨めしや。恨めしの女御やとて。恋の淵にぞ。入りにける。」といってシテは幕の中に入ってしまい、別に誰も救われないのです。これはもう霊験あらたかな聖を呼んで懇ろに祈祷をしてもらった方が良さそう。

それにしても理解が難しいのは、女御の気まぐれにそこまで怒ってしまう老人の気持ちだ。いくら有頂天になっても、普通は女御やお付きの人がからかっているという可能性だってゼロではないと心配に思うのではないだろうか。六条御息所も「葵上」で怒って荒れ狂ったけど、彼女はそれなりに源氏と朝からぬ関係があったわけだし、自分の方が葵上より立場が上だという気持ちが二重に怒りを呼んでいるのだと思う。ひょっとすると「俊頼髄脳」にあるという「綾鼓」の老人のモデルになった老人(実在するとすれば)は、本当は、女御の言葉を一度でも本気にした自分に恥入って身を投げたのだったりして。さらに後世、自分の知らないところで話が膨らんでこんな物語になっていたと知ったら、その方がずっと居たたまれなかったりして…などと思ってしまったりした。


ちなみに女御は天冠を付け、紅入りの唐織を壷折にして大口袴という出で立ち。女御なのに冠を付けるのだ、とおもしろく思った。で、今まで観たお能の中で位の高い女性を思い浮かべてみたが、「葵上」の六条御息所とか「大原御幸」の建礼門院、「碇潜」の二位尼とかで、現役のお后様的立場の人は思いつかなかった。后だと天冠を付ける資格ありってことかしらん。