国立能楽堂 定例公演 文山賊 江口

狂言 文山賊(ふみやまだち) 野村扇丞(和泉流
能  江口(えぐち)甲之掛(かんのかかり) 観世清和観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2499.html

前々から観てみたかった江口。豪華な出演者と豪華な装束&面で、楽しい公演でした。


狂言 文山賊(ふみやまだち) 野村扇丞(和泉流

二人の山賊(野村扇丞師、小笠原匡師)がひょんなことから喧嘩をはじめ、取っ組み合いをする。それでもおさまらず、果たし合いをすることにするが、その前に書き置きを残そうということになり、矢立を持っている方が文を書き始めて…というお話。

物騒な職業の割には、ほのぼの仲良しの二人。取っ組み合いの時も、やれ後ろに茨がある、今度は崖があるといえば、危ないからもっとこっちに来いと、まるで本気の喧嘩ではないのが面白い。子供の喧嘩みたいに、観ているうちにあれよあれよと収まって仲良く帰って行ったのでした。…こんな二人で本当に山賊なんて出来たのだろうか?


能 江口(えぐち)甲之掛(かんのかかり) 観世清和観世流

西国行脚を志した旅僧(森常好師)は、江口の君の跡を訪れる。旅僧が西行法師と江口の君の一件を忍んで、新古今和歌集西行の歌、「世の中を厭ふまでこそ難からめかりの宿りを惜しむ君かな」を吟ずると、「今の歌をば何と思ひて口ずさみ給ひ候ふぞ」と里の女(観世清和師)が声を掛ける。里の女は、宿りを惜しんだ訳ではない、世捨人である西行に人の世である仮の宿に心を止むるなと思ったのだという歌を歌ったのだという。そして、自分は江口の君の幽霊ぞ、と言い残すと消えていってしまう。
里の女は、紅と白の段替の唐織に秋草と垣、金糸で亀甲繋ぎの文様という出立で、増の面を付けている。増の面は繊細な美しさでうっとりしてしまうけど、装束の方は普賢菩薩の化身であるという女性とはイメージが違うなと思ったが、実はそれは後場のお楽しみなのだった。


シテが中入りすると、間狂言で所の者(野村萬師)が出てくる(関係ないけど地頭が野村四郎師なのでついお二人を見比べてしまった。当たり前だけど似ていらっしゃいます)。
ワキの旅僧が江口の君の跡の謂われを問うと、所の者は次のように話した。即ち、書写山性空上人が普賢菩薩を夢に見たいと室住川に行き、「周防のみたらしの沢辺に風のおとづれて」と上句を歌うと、遊女が「ささら波立つやれことつとう」(※正しいか自信なし…)と下句を付けた。そして性空上人が目を開けると遊女に見えたが、目を閉じる生身の普賢菩薩に見えたという。江口の君は25人の遊女と共に普賢菩薩となって、また舟は白象となって空に消えていった。その後、江口が室住に似ていることから普賢菩薩は江口に遊里を作り、そこに西行法師が来たのだという。
さらに所の者は、江口の君=普賢菩薩は尊き者の目にしか見えないと指摘する。性空上人、西行と並ぶ室町時代の僧って誰だろう?一休さん?ちなみに、アイは江口の長を「おさ」ではなくて「ちょう」と言っていた。


ワキの僧がアイに弔うことを勧められ供養をしていると、作り物の舟が橋掛リの一の松と二の松の間辺りに運び込まれ、舟に乗った江口の君と遊女達が現れる。
この後場の江口の君が、私の拙い言葉で言い表せない程、美しい装束を付けているのだ。その唐織は、古い金地に青味の多い扇の扇尽くし。地の金箔だったのが、少しはがれ落ちていて下地の白が見えている。けれども、それが遠目からは景色となって見え、全体としては返って優しい透明感のある金色に見える。扇の文様は比較的小さくて(10cm弱ぐらい?)、それぞれの扇面に更に秋草等の刺繍が施されている。ただただ美しくて、もし叶うなら三ヶ月間くらい毎日眺め暮らしたいくらい。こういう素晴らしい装束を実際のお能で付けられるのは、さすが宗家の役得というか、宗家の務めというか。私のような小心者なら、「これ以上着ると生地を痛めちゃうから、もうお蔵入りね!」とか言い出しかねないけど(まあ、最初っから使わない時はお蔵に入っているんでしょうけど)、こうやって宗家が太っ腹に使って下さるお陰で見る側の私達は、本来なら美術館行きの装束が、実際に使われる様子を目の当たりにすることができるわけです。かえすがえすも、ありがたや。

ついでにツレの二人は、一人が紅入りの松の文様の唐織着流。この人の面は確か「しなのめ」。最初の「し」と最後の「め」が合っていることは確かなのだけど、先日観た狂言の子盗人に出てくる「しおのめ」と国立能楽堂パンフレット今月号巻頭エッセイに出てくる「東雲(しののめ)」が記憶に干渉を起こして、ごっっちゃになってしまった。小面に似た面です。それから、もう一人のツレは青地に秋草の唐織着流。面白いのは、面の名前が「棹さし」。確かにこの人は棹を持っていた。万が一、「江口」のツレの専用面とかいうマニアックな面だったら楽しいのだけど。でも考えてみたら、昔の遊女は舟に乗って舞ったり太鼓を鳴らしたりしながら川や湖を逍遥していたらしいから、女性の面に「棹さし」という銘が付いているというのは、あながち遊女とは無縁の面でもないような。


そして、仏教的な詞や和漢朗詠集の詩等による詞章が続くが、これが音読みする漢字のオンパレードなので耳で聞いても全然ピンと来ない。昔の人は多分、この程度のことは知識として知っていたのだろう。それから、序之舞となる。最近観た曲は中之舞が多くて序之舞のものは久々に観たけど、確かにゆったりとしたものでした。江口の君が普賢菩薩だから、序之舞なのか。「甲之掛」という小書は、パンフレットの金子直樹氏の解説によれば、「序之舞の序が終わって舞の冒頭に笛の特殊演奏が入ります」とか。

最後は「これまでなりや帰るとて、すなわち普賢菩薩と現れ舟は白象となりつつ、光と共に白妙の白雲にうち乗りて、西の空に行き給ふ、ありがたくぞ覚ゆる、ありがたくこそは覚ゆれ。」と江口の君は白象に乗って消えていってしまった。まるで、「羽衣」みたいに、すっきりさわやかな終わり方なのでした。


とにかく、とっても素敵なお能でした。大好き。