出光美術館 芭蕉からの贈りもの

芭蕉 <奥の細道>からの贈りもの
併設:仙がい展
2009年9月19日(土)〜10月18日(日)
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/schedule/200904.html

芭蕉の深川草庵への転居後没年までの「書跡」を観るという興味深い企画。最終日にいきました。


芭蕉の書を展示しているといっても、その中身は当然のことながら、ほとんど俳句だったり和歌だったりして、芭蕉の自筆の書で芭蕉の句を味わうというようなことになり、大変、贅沢な体験なのでした。そうそう、歌といえば、芭蕉だけでなく弟子達と連歌(歌仙)というのをやっていて、それがかなり興味深い。「歌仙」というのは、誰かが五七五を読むと次に七七とつけて三十六句作るというものだそうだ。いくつか展示されていたのだけど、そのうちの一つは最初、春の歌だったのに段々と夏、秋、冬と季節が巡っていって最後にまた春に戻っていた。なんだか連歌のおもしろさをちょっと垣間見た感じ。


書跡鑑賞の観点からいうと、芭蕉は大師流という書のスタイルをとっていたのだが、これが興味深い。
芭蕉の深川庵時代(1680年代)の書をみてみると、文字を草書みたいに崩さずに一筆書きに書くという、ぐるぐるした感じの筆跡だ。これが大師流のひとつの特徴的なスタイルなのだとか(大師流には、ほかに上代様の書き方もあって、「寛永の三筆」の松花堂昭乗も大師流だという)。これを観て思い出したのは、雁金屋Bros.のyounger brother、乾山のこと。彼は京にいた時は、和歌を書くときは定家様で書いているのだけど、晩年お江戸に来てからは、ぐるぐるしたスタイルで書いていた。一体、どーゆーことなの?と前から不思議だったのだけど、考えてみると、この書が大師流とそっくりなのだ。ということは、乾山も江戸に来て、大師流をマスターしたということなんだろうか。お江戸では大師流が流行っていたのだろうか。色々と疑問が沸いてくる。


それから、芭蕉のお江戸の引っ越し先が地図で示されているのも、なかなか興味深かった。
まずは、神田川沿い、フォーシーズンズ椿山荘の裏手の関口芭蕉庵が皮切り。川を渡った先の早稲田方面の田圃を愛でたとか。今は田圃なんか一枚もないけど、早稲田方向はちょうど関口芭蕉庵から見て南側になるから、高台の裾にある芭蕉庵の眼前には、稲穂が太陽を浴びてきらきら光る様子が一面に開けていたに違いない。また、田圃の海に浮かぶ島のように、こんもりとした森を持つ小さな丘もいくつか見えたはず(穴八幡のあたりとか箱根山とか…)。長閑な光景だったのだろう。
それから次は、今の日本橋三越の真ん前。これは知らなかった。その当時は越後屋は商売を始めていたので、かなり賑やかだったのだろう。
それで喧噪を避けて引っ越した先が深川の今の深川芭蕉庵跡のあるあたり。ここは、今でも素晴らしい眺めが楽しめる場所だ。殊に、日暮れ近く、もうちょっと河口に近づいて永代橋あたりから見る夕暮れは、いつまでも眺めていたくなる風景。夏は隅田川に沿って流れ込む風が心地よいし、一年中、墨田川を様々な荷物を積んだ船が数多行き交うのを飽かず眺められたでしょうし、実は日本橋にも徒歩で20分ぐらいで行けちゃうし、住むには最高。さすが芭蕉、お目が高い。


などといいつつも、シリアスな句と書跡を鑑賞するというのはなかなか骨の折れることで、ちょっと疲れたなあと思いながら展示室3に行くと、こっちを向いて訴えかけるような目のカエルの絵と共に「池あらば飛んで芭蕉につたえたい」という句が。思わず吹き出しそうになってしまった。ここから併設の仙がい展が始まっていたのだ。ここから先は急に力が抜けた、楽しい展示なのでした。


ところで今ふと思ったのだが、「奥の細道」って、「奥州」と「蔦の細道」(「伊勢物語」第九段の東下りの話より)から来た題名ってことだろうか。今まで全然気がつかなかった。

昔は芭蕉というと、私の勝手なイメージで、俳諧で当時の最先端を切り開いた孤高の人と思っていた。けれども、実際にいくつかの句集を読んでみると、彼がいかに古典を大事に、ゆかしく想っていたかよく分かる。今は目の前のthings to readのbacklogが多すぎて芭蕉のことを詳しく知るところまで手が出せないけど、いつか必ず、ちゃんと知りたいと思う。