国立劇場 特別公演  松尾 魚説経 定家

特別公演  松尾 魚説経 定家
能  松尾(まつのお) 田崎隆三(宝生流
狂言 魚説経(うおぜっきょう) 山本則直(大蔵流
能  定家(ていか) 関根祥六(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2500.html

松尾(まつのお)

宝生流にのみ残るという曲。最初、老翁(田崎隆三師)があらわれるのだが、彼の持つ緑の綿棒のような箒のようなものを持っていて、これがものすごく気になる。一体、何なのだろう。

狂言では、所の者(山本則孝師)が長裃で出てきたのだが、神社の御由緒をワキの臣下(高井松男師)に問われると、「上つ方ではないので詳しいことは存じ候はねど」ということを言うのが面白い。所の者は長裃を付けているので大名等それなりの地位の人かと思ったのだが、そういうわけでもないのだろうか。または、上つ方というのは、もっと上の地位の人ということだろうか。所の者は、松尾社は君(天皇)の近くに在すことにより君を守護するのだという。また、嵯峨や大堰川までも守っているという。

後シテは、邯鄲男の面。面白い、廬生クンの面は神の面にもなるのだ。紺地の金の縦沸に桐文の狩衣、紅白段替に格子文様の厚板、透冠、大口。序之舞等ではなく、神舞というのになって、めでたい雰囲気のお能なのでした。


魚説経(うおぜっきょう)

漁師稼業から足を洗い、出家したシテ(山本則直師)は、道で都人に出会う。都人は持仏堂を建てたので供養してくれる僧侶を探しているという。シテの出家は渡りに舟とその都人の家に行く。しかし、経を習わぬ出家は説法を頼まれて弱ってしまい、上手くごまかす方法を思いつくが…というお話。

歌舞伎、文楽の「義経千本桜」の「渡海屋」の段の、魚尽くしを彷彿とさせる趣向。こちらもなかなか面白い。


定家(ていか)

定家の名を冠し、式子内親王をシテとするだけあって、詞章の美しさが群を抜いている。古今和歌集伊勢物語万葉集新古今和歌集等々の歌が多く引かれていて、まるで万華鏡を眺めているよう。

ワキの僧(福王茂十郎師)が、時雨の降る中、今出川千本のあたりで由ありげな宿りを見つける。ここで雨宿りをしようとしていると、里の女(関根祥六師)があらわれ、ここは時雨の亭であるという。先日、京都に行ってきたのだけど、今出川千本にあるのは時雨亭跡ではなく、式子内親王のお墓だった。時雨亭は嵯峨の常寂光寺にあった。ワキの僧は時雨亭ではなく式子内親王のお墓で見た幻だったのだろうか?里の女は若女の面に紅入り唐織着流。立ち姿が美しくてうっとりしてしまった。
里の女は時雨の亭について説明し、「げにや定めなや定家の 軒ばの夕時雨 ふるきにかへる涙かな」というところで涙し、何か訳ありそうな様子を見せると、式子内親王の定家葛がまとわりつく石塔についても話はじめ、定家の執心が葛となって式子内親王にまとわりつく様子を語る。そして「くるしみを助け給へと 言ふかと見えて失せにけり」と言うと消えてしまう。この里の女の様子があまりに儚げで、僧が心を掛けて弔おうと思うのも当然なのだった。

狂言では、所の者(山本東次郎師)が、式子内親王と定家のことについて語る。
式子内親王は、第八十二代の後鳥羽天皇の御時の賀茂の斎院でその後お下りになり、歓喜寺に住まった。式子内親王は御手洗川で今後恋をしないという禊ぎをした。しかし、定家の忍びの恋により御契りあり、人の噂となり恋路絶え絶えとなる。その後、式子内親王が亡くなると、しばらくして定家も亡くなり、式子内親王の墓に蔦が這いまとった。所の者共が蔦を取り除いたが一夜にしてまた這いまとった。また尊き人の夢に、(定家があらわれた?)式子内親王の墓の葛をなぜ取るのかという。定家の執念や祟りをおそれ、その後、定家葛を取る人はいなくなったという。
また、時雨の亭の由来についても語り、定家は時雨の時だけでなく、寂しい時も訪れ歌を詠ったという。
よくよく考えてみると、前場の詞章と大体同じことを言っているのだが、さすが東次郎師の語りには聞き入ってしまうのだった。
そして所の者は僧に弔いをすることを進める。

後場となり、僧が式子内親王の供養を行っていると、「これ見給へやおん僧」という言葉と共に、お墓から式子内親王が出てくる。面は「霊女」というもので、白地に金の葛の文様の長絹、褪めた色の赤の大口姿。ワキの僧は式子内親王のために薬草喩品を読誦すると、定家葛がほろほろと解ける。式子内親王は喜び、序之舞を舞う。普通は序之舞は清々しい感じがするけれども、この序之舞は囃子方、シテの舞共に、しんみりとした、情感ただよう様子だった。私は、この序之舞の間、ふと、少なくともこのお能の中において、式子内親王は定家のことを思っていたのかそれともそうではなかったのか、と考えながら観ていた。けれども、それはよく分からなかった。しかし、式子内親王は、定家の執心を受け止めるだけの大きさのある人であったことは確かである気がした。たぶんそれは、祥六師の芸や人間的な大きさから感じたことであり、この「定家」というお能は、それなりの人でないと舞うことはできないのではないかと思った。

そして、舞終えると再び定家葛は這いまとい、式子内親王は蔦に埋もれて消えてしまうのだった。

事前に詞章を読んだ時は、この何も言わずただ式子内親王にまとわりつく定家が恐ろしいと思ったのだが、祥六師の「定家」を観ると、そのような定家の執心を受け止める式子内親王の大きさが印象に残るお能だった。
天国の定家は、「定家」で自分がよく描かれていないからひょっとしたらご不満で文句たらたらかもしれないけど、こんな風に演じられれば、きっと許してくれるのではないかと思う。

またいつか良い機会があれば是非、再度観てみたい曲だった。