国立能楽堂 普及公演 鏡男 頼政(その2)

解説・能楽あんない 頼政と埋もれ木の歌  馬場あき子
狂言 鏡男(かがみおとこ) 松田高義(和泉流
能  頼政(よりまさ) 高林白牛口二(喜多流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2521.html


前の日の続きです。


能  頼政(よりまさ) 高林白牛口二(喜多流

最初に松田弘之師の「名のり笛」があるのだが、この旋律が興味深かった。おなじみの「名のり笛」の旋律は「♭シーラソー♭ラーファー」みたいな感じで音階が下がっていく旋律なのだけど、この曲では「ミーシーラシドラーシー」風な(うろ覚え…)音階を上がっていく旋律だった。同じ旋律は後シテの「一声」の時も使われていて、多分、「頼政」の時はこの旋律ってことになっているんじゃないだろうか。うーん、私の耳がもうちょっと頼りになって、笛のこともきちんと判別できたら面白いのに!

遠国の僧(高井松男師)が京の寺社を残りなく拝んだので、今度は奈良に行こうと思い立つ。僧は稲荷山の倉稲稲荷、深草、木幡(こわた)の関を越え、伏見の沢田を過ぎて、宇治の里に着く。

心静かに名高い宇治の里を眺め「げにや遠国にて聴き及びし宇治の里、山の姿川の流れ、遠の里橋の景色、見所多き名所かな」と舞台中央に行きながらひとりごつ。すると揚幕の中から「なうなう御僧は何事を仰せ候ぞ」と声がかかる。僧は、ワキ座に行き、宇治の里は初めて来たので「名所旧跡残りなく御教え候へ」と、唐突に名所教えを所望する。

老人は紫色がかった納戸色の着付にキャメル色っぽい水衣。名所教えを頼まれた老人(高林白牛口二師)は揚幕から出ると、「所には住み候へども」(このあたりに住んでいるとはいっても)名所旧跡については知らないので何とお答えすべきでしょう、と橋掛リを歩きながら答え、一ノ松と二ノ松のあたりに来る。
僧は、『勧学院の雀は蒙求(もうきゅう)を囀(さえず)る』といいますから近所の方ならご存知でしょう、まずは喜撰法師の庵はどこですか、と尋ねる。
老人はまた歩き出しながら、喜撰法師も「我が庵は都の巽鹿ぞ住む、世を宇治山と人は言うなり」と他人事のように言っているのですから私は知りません、と答えて常座に着く。
僧が、槇(まき)の島、小島が崎、恵心の僧都説法をした寺を尋ねると、と老人は槇の島で中正方向を指し示すと、段々と中央方向に視点をずらして行く。このあたりから、囃子が入ってますます能の世界に引き込まれる感じ。そして老人が「なうなう旅人あれご覧ぜよ」とワキの方をみて問いかけ、「名にも似ず月こそ出づれ朝日山」というと橋掛リ方向を見る。同じフレーズを地謡が引き継ぐと老人は正面方向を向き、「朧々(おぼろおぼろ)として是非を分かぬ景色かな」で扇を少しだけ上げかけて中正の方向を向く。「都に近き宇治の里」で太鼓前で舞台を一周し、「聞きしに優る名所かな」で常座で正面を向いてヒラキをする。

老人は興に乗ったのか、正面を向いて僧に向かって「こなたへ御入り候へ」という。そして、平等院の中を案内すると、源三位頼政が扇を敷いて自害した扇の柴と呼ばれる場所に案内する。自害する時に扇を敷いたということは、平家物語に載っていない。「通円」を観た時も同じく「(扇の代わりにを団扇を敷いて」という詞章が出てきて不思議に思ったが、パンフレットの竹下歩氏の解説によれば「中世に至るまでに出来た伝承のようですが」ということなのだそうだ。

扇の芝を見た僧は、「痛はしやさしも文武に名を得し人なれども、跡は草露(そうろ)の道の辺となつて、行人征馬の行方の如し、あら痛はしや」というとひざまづいて合掌する。

老人は、良く弔って下さい、実は今日はその自害した日なのですよ、と言うと僧は驚く。老人は更に、このように言えば他人事には思えなくなってきました。他でもない、旅人の草枕の夢に現れようとやって来たのです。「現とな思ひ給ひそ」(現世のものとは思わないで下さい)といって涙ぐむとワキの方に進み、「遠方人(おちかたびと)に物申す我頼政と、名宣りも敢へず失せにけり」でその場で一回転すると常座に行き、中入りする。


狂言では、里人(野口隆行師)が現れ、旅人に声を掛ける。旅の僧が扇の芝の謂れを尋ねると、詳しくは存じ候へけど、と言いながら語って聞かせる。頼政の子、仲綱が持っていた名馬を宗盛が所望し仲綱の態度が気に入らなかった宗盛が馬に焼印を押した話、滝口競が宗盛側についたと思わせ「昔は南陵の馬、今は宗盛」という焼印を馬に押した。以仁王の乱では官軍は二万八千騎(馬場さんのお話では実は三百騎)で馳せ参じ、頼政は扇を敷いて自害をした等々。

ワキの僧がつい先ほどの老人のことを話すと里人は、それはきっと頼政の亡霊であるからしばらく逗留してお弔いをして下さいという。


後場となり、僧が袖を方敷いて頼政の出を待っていると、笛の音と共に後シテの頼政の亡霊が現れる。面は「頼政」という「頼政」の専用面。もっとハンサムな面かと思ったけど、実際は、平家の公達や殿上人等とは違い、武悪等を想像させるような無骨な面。それから独特な頭巾。馬場さんによれば、出家だからということらしい。装束は緑地に金の立涌の文様の法被に金の半切。「血は琢鹿(たくろく)の河となり、紅波(こうは)盾を流す」「伊勢武者はみな緋縅の鎧着て、宇治の網代に、掛かりぬるかな」と宇治川を真っ赤に染める物々しい戦の雰囲気をまとってシテは橋掛リを進み、「蝸牛の角の、争いも」で常座で足拍子を踏む。出家の装いながら甲冑を着けた様子に旅僧は「源三位の、その霊にてましますか」と尋ねる。シテは源三位であることを恥ずかしくおもいつつ認めると読経を続けるように頼む。ワキの僧がなおも読経を続けると、「ここぞ平等大会(びょうどうだいえ)の功力に頼政が仏果を得んぞ有り難き」で足拍子を踏む。

シテは更に「今は何をか包むべき、これは源三位頼政、執心の波に浮き沈む、因果の有様現すなり」と言うと、<クセ><サシ>で「平家物語」の「橋合戦」、「宮御最期」に描かれた合戦の様子を激しい動きと共に再現する。宇治川を渡ってきた軍勢を「切先を揃へてここを最期と戦うたり」で刀で目付柱に斬りかかる。

しかし、頼みとする兄弟も討たれてしまうと、もはやこれまでと思い、舞台正面に出ると安座し、扇を置く。「埋もれ木の、花咲く事もなかりしに、身のなる果ては、哀れなりけり」という辞世の句を詠むと、常座に戻り「跡弔ひ給へ御僧よ」というと、「扇の芝の草の陰に、帰るとて失せにけり」で片膝を付くと右手の袖を被いて消えていってしまうのだった。



収蔵品資料展(後期)

収蔵資料展の後期が始まっていて、米国に流出していた「百万絵巻」が新出で展示されていた。

詞書の間に能の所作を物語の挿絵風に描いた絵がある絵巻。こういうパターンの絵巻はいくつか見たことがある。ひとつは、以前、すみだ郷土文化資料館で見た、墨田区の木母寺の縁起を描いた「梅若権現御縁起」等。あの絵巻もお能の「班女」と「隅田川」をくっつけたような絵巻だった。それから有名どころの絵巻では「清水寺縁起」の盛久の話の部分。これは、平家物語の盛久のエピソードではなく、お能の「盛久」の話をベースとした話を収録している。昔の人達はお能の話を半ば真面目に信じていていて、このような神社仏閣の縁起にも組み入れたのだろうか。

実は同じ国立能楽堂収蔵品でほとんど似たような絵と詞書のついた絵本があってそれも一緒に展示されていた。よくよく見ると装束が(特にワキやツレ)違うものがあったりする。絵はすごく似ているけれども、それぞれの絵を書いた人はそれぞれ別の能楽師に取材して描いたようだ。

それから気になったのは百万の狂い笹が今よりずっと大きいこと。笹の長さは百万の身長と同じぐらいで、これを持ち上げて歩けばものの十分で翌朝筋肉痛になることは確実。それに下手に振り回せば地謡囃子方が大迷惑。以前「百万」を観たときは一日振り回して歩いても全然筋肉痛にならなさそうな大きさだったように記憶しているので、この「百万絵巻」の絵が書かれた頃から現在までの間にだんだんと狂い笹のミニチュア化が進んだということでしょうか。