国立能楽堂 定例公演 土筆 西行桜(その2)

狂言 土筆(つくづくし) 大藏吉次郎(大蔵流
能  西行桜(さいぎょうざくら) 片山幽雪(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2526.html

西行桜、もう少しだけ。


詞章で面白いなと思ったのは、一つは、「西行戻り橋」等の言い伝えみたいに西行が誰かに反論されるというパターンをとっていること。

謡曲「江口」は既に本歌の説話の段階で既に西行が江口の長に言い負かされているので、謡曲の「江口」の中では、何故江口の長がそんなことを言ったのかという言い訳が話のきっかけになっている。一方、この「西行桜」の方は、老桜の精に「桜の咎とは何やらん」と問いかけられ、「非情無心の草木の、花に浮世のとがはあらじ」と言い負かされている。中世の人達の間では、西行といえば言い負かされる人というイメージが定着していたのかしらん。


それからもう一つ興味深かったのは、「西行桜」の最後の場面が明け方に設定されていること。

去年観た同じ世阿弥作の「屋島」の最後もそうだった。三宅晶子先生が好きだという「春の夜の浪より明けて」というのが、そうだ。三宅先生によれば、世阿弥は念には念を入れて、うまく明け方にするために実際の屋島の合戦の日よりも日程を遅くして、ちょうど明け方の話になるように設定しているらしい。
西行桜」の方は、もっと明け方の様子が強調されていて、

シテ: 春の夜の
[序之舞]
シテ: 花の陰より、明け初めて
地謡: 鐘をも待たぬ別れこそあれ、別れこそあれ、別れこそあれ
シテ: 待て暫し待て暫し、夜はまだ深きぞ、
地謡: 白むは花の影なり、外はまだ小倉の山
     陰に残る夜桜の、花の枕の、
シテ: 夢は覚めにけり、
地謡: 夢は覚めにけり、嵐も雪も散り敷くや、花を踏んでは同じく惜しむ少年の、春の夜は明けにけりや、翁さびて跡もなし、翁さびて跡もなし

となっている。

春、明け方という時刻となると思い出すのは、枕草子の第一段の「春はあけぼの」。ふーん、春は曙ね、と単純に考えていたけど、どう書いてあったか思い出してみると、

春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

でした。単に「あけぼの」というだけでなく、段々と明けていく時間の移ろいに重点があり、その中でも特に空が白み始める位の本当に「明け初める」時間帯を愛でているということが分かる。また、山全体が明るくなる前、山際がほんのほのかに明るむ様子が良いというのも、清少納言の独自の鋭いセンスを反映しているところだと思う。さらに、「むらさきだちたる雲」が「ほそくたなびきたる」というような、常に形を変え消えて行ってしまうような、はかないものこそ春を象徴していると考えているようだ。


世阿弥は、当然「枕草子」の第一段を知っていたと思う。「枕草子」は歌論書としても読まれていたというし、世阿弥は、この「春はあけぼの」論に共感して、「屋島」や「西行桜」の最後の場面に「あけぼの」の場面を設定したのかも。