国立能楽堂 特別企画公演  野馬台の詩

小田幸子 脚本
梅若六郎 演出・節付
野村萬斎 演出
国立能楽堂制作・初演
新作能  野馬台の詩(やまたいのうた) −吉備大臣と阿倍仲麻呂野村萬斎梅若玄祥

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新作能。間狂言が能の中に溢れて融合してしまったような感じ。「吉 備大臣入唐絵巻」を原作としたお能だが、「吉備大臣入唐絵巻」の大真面目の中にサラリとおふざけが混在している独特の雰囲気を再現していて、まさに、飛び出す絵巻を見るようでとても楽しかった。

阿倍仲麻呂が唐人に恨みを持つような死に方をしたという認識はなかったので話の展開にちょっとびっくり。吉備大臣入唐絵巻に書いてあったっけ?まあ、仲麻呂の装束からしてオドロオドロしいので最初っから展開は薄々見えるわけではありますが。一応、幽閉され餓死して鬼になったという俗説はあるようだ。


囃子方地謡が所定の位置につくと、作り物が運ばれてくる。これは、塚のように引き回し幕で包まれた部分と「三井寺」の鐘の作り物みたいな感じで作り物の上に小さな建物が建っている。その作り物が大小前に置かれると、その小さな建物にかかる梯子みたいな階段が設置される。もう、これだけで、吉備大臣入唐絵巻の吉備が幽閉されていた高楼そのまんまでうれしくなってしまった。

そこに牢番(高野和徳師と深田博治師)が一人また一人と来て、牢に入れられている吉備のうわさ話をする。いわく、どうも吉備とやらは唐の国を狙おうとしているらしい。質問攻めにして笑いものにすればしっぽを巻いて逃げ出すだろう、という思惑のもとに、幽閉されている。

牢番が居眠りしてしまうと、作り物の塚の中から謡の声がする。そして突然、鳩時計よろしく高楼の扉がパカっと開いた。びっくりした…。で、萬斎師は高楼から顔を出すと、お腹がすいたという。さらに高楼の扉の建付が悪かったようで脇正方向の扉が閉まらなくなってしまたのだが、萬斎師は几帳面に一度、わざわざ戸を取り外してからまた鴨居と敷居の間に戸を取り付けていた。その後すぐに引き回し幕が外されて高楼の作り物から出るのに、そのままにせず、えらい。


そこに、地謡と共に真っ黒のオドロオドロしい装束をした仲麻呂が橋掛リから現れる。一ノ松のあたりに来ると、吉備に声を掛ける。 吉備の入っていた高楼の引き回し幕が外され、吉備が出てくる。実は観た感じ、萬斎師は吉備というより仲麻呂っぽく(ハンサムだったらしい)、玄祥師は吉備っぽい(吉備大臣入唐絵巻では恰幅のよい男性になっている)。

仲麻呂は、自分も高楼に入れられ食物を絶たれ餓死してしまったので、吉備が同じことにならないよう、食物を持ってきたのだという。仲麻呂はまず、一番気がかりだったのだろう、自分の子孫の行く末を聞いたりする。そして、望郷の思いについて語ると、吉備は帰国したら帝にこの件を話し、子孫を訪れ手厚く弔おうという。


それでは、ということで、仲麻呂は早速、吉備に必勝法を伝授する。まずは、文選を読み、囲碁を練習しろという。実は高楼の脚柱部分についている半蔀みたいな格子状の部分は碁盤を上から見たという設定の小道具だったのだ。その碁盤を使って二人は囲碁をする。実はこれは囲碁の盤面だったのだ。吉備はすぐに碁を習得し仲麻呂に勝ってしまう。

次に文選を盗み見に行く。仲麻呂が「楼の隙より立ち出でて、宮中に向かうべし」というと、早速、雲に扮した黒い装束の狂言方の人達が四人出てきて、吉備を乗せて宮中に行くのだ。開演前に見たパンフレットに「雲役」と書いてあったので、雲役って何?と思ったが、本当に雲の役なのでした。

そして、文選三十巻分をことごとく暗記すると(すごい記憶力)、暦の裏に書き付けておき、中入りになるのだった。


狂言のような感じで、石井幸雄師の通辞が出てくる。通辞は、吉備が唐人が出した難問を苦々しくも次々と解いてしまったことを話す。ここの部分も本来は絵巻に楽しい絵入りで紹介されているけれども、この狂言では通辞の語りで語られていた。
ことごとく試みを失敗した唐の人達は、奥の手として、未来の預言書である「野馬台詩」を読ませようということになったという(といって、観客に事前に配られた野馬台詩の文面を見るようにいう)。しかも皇帝も直々にご叡覧されるという。

 
囃子方により[真之来序]が奏されると、皇帝(野村万作師)と随臣が出てくる。一行は、端に鈴がついた御蓋(僧や貴人にかざす大きな傘ようなもの)を皇帝かざしてシャランシャランと鈴を鳴らしながら橋掛リを舞台に向かって歩いていく。皇帝が引立大宮に鎮座ましますと随臣達が「ワンスイワンスイ タイショ カーン!」と中国語で(?)忠誠を表す。何となく頑張れば(?)意味が分かりそうだけど、私の頭の中では「王水王水 対処 漢!」等と自動変換されただけで、意味は分からず…。


そこに吉備が連れてこられ、通辞から「野馬台詩」を読めと言われる。ところが、難解な文書で縦から読んでも横から読んでも斜めから読んでも全くダメ。さすがの吉備もピンチ!

そこに萬斎師の御子息、蜘蛛の扮装をした(とゆーか小鬼風?)裕基くんが登場。挨拶がわりに軽く横転などをご披露。パチパチ。次に裕基くんが取り出したのは菜箸ぐらいの長さの棒の先に小さな蜘蛛のマスコット?が付いたもの。その蜘蛛は紐で棒につながっている。裕基くんが棒をくるくる回すと、棒に巻き付けられた紐の先の蜘蛛が棒からするする落りてきた。そしてなんと、萬斎師が広げて手に持つ「野馬台詩」の上で蜘蛛が読む順番を指し示したのだ(とゆーか、裕基くんが棒で適当に蜘蛛を動かした)。おー、頭いい!この場面がこんな風に再現されるとは想像だにしなかったので素直に感動。そのようなわけで吉備は無事に「邪馬台詩」を読むことができたのだった。

吉備は解読した「邪馬台詩」によって日本が滅びるということを知ると、急いで日本に帰ろうする。皇帝は吉備の学識に感じ入って是非に唐にとどまるように言うが、ここに思いもかけない伏兵が登場。阿部仲麻呂が、時は今なりとばかりに皇帝に恨みを晴らそうとして皇帝に襲いかかる。そこで吉備が間に割って入る。まあ、常識人なら皆そうするだろう。ところが、仲麻呂は、このまま吉備を日本に返すと吉備一人の手柄となってしまうと訴える。吉備は帰国を助ければ仲麻呂は死後の誉れを残すだろうと力説する。しかし、怒り狂った仲麻呂にはもう通じない。仲麻呂は「この上は我が怒りにて唐土も日本も滅ぼさん」といって[囃子事]となる。すると、たちまち日輪は消え暗黒となって大地が真っ二つに割れると、吉備は奈落に落ちて行ってしまう。

ここで暗転して、舞台正面、階(きざはし)に足を掛けた吉備だけにスポットライトが当たると、吉備のまわりは暗黒世界。どうも日本には帰ってきたようである。吉備は周囲の尋常でない様子を不審に思いながらも、持ってきた野馬台詩の巻物を見ると何も書いていない。ともかく、吉備は戻ってきたと叫ぶ。その声を合図に再度暗転するのだった。最後は能狂言では全く観ることのない、現代演劇風な萬斎師の表情が印象的だった。もう一度舞台がほの明るくなると、萬斎師は後ろ姿で既に常座あたりを橋掛リに向かってあるいていた。

正直に言うと、結末はどういう演出意図なのか、イマイチ分からなかった。パンフレットの作者の小田幸子氏の寄稿文を読むと、物語の結末について「中国側を打ち負かして終わる説話や能の結末は、どう考えても現代の目にはそぐわない」とのことで、吉備の「公」の意識と仲麻呂の「私」の意識が決裂し、時間軸が狂って、吉備は「時間の穴」に落ちてしまったというようなことを描いたという趣旨のことが述べられていた。

要するに、制作側の意図としては、作品中に内在する様々な対立項―日本と外国、生死、友情と嫉妬等―の対峙を舞台上に見せることで、観る者がそれぞれ自身の心の内に対峙するものにも目を向けさせるというようなことだったのかもしれない。一方の私といえば、吉備くんが唐の人達の難問を無事解いて日本に帰ってきても全然受け入れられる結末だった。私は、「その舞台を見てすっきりした気分で楽しく能楽堂を後にできるかどうか」ということぐらいしか考えてなかったので、そこまで深く意図を読み取ることが出来なかったのだ。でも、古典劇のフォーマットで演じられてるのだから、あまり現代的な視点を意識しすぎることもないんじゃないかなあという気がしないでもない。(逆に現代的なメッセージを伝えたいのなら、これだけガチガチに古典劇の文法で演じなければならない必然性は無い気がしないでもないけど)