国立能楽堂 九皐会百周年記念特別公演 三山 関寺小町(その2)

観世九皐会百周年記念特別公演 先代二世観世喜之三十三回忌追善
能   三山  観世 喜正
狂言  泣尼  山本 東次郎
能   関寺小町 観世 喜之

つづきです。

狂言 泣尼

シテの僧(山本東次郎師)は法要を頼まれたが、実は法話は不得意。そこで、どんな話も有り難がって泣いて聴いてくれる尼がいることを思い出し、彼女をサクラとして同席させることを思いつく。首尾よく同席させることに成功したものの…というお話。

泣尼の面は博物館等で観たことがあったけれども、なるほど、こういうお話だったのでした。だから泣いた顔をしていたのか。

しかし、何故、面をするのかは分からない。何か意味がありそう。


仕舞ひとからげ

「敦盛」、「松風」、「隅田川」、「山姥(キリ)」、「白楽天」、「藤戸」、「西行櫻」、「船辨慶」の仕舞を観た。

印象的だったのは、仕舞というのは、残酷なくらい、出来不出来がはっきり分かってしまうということ。もちろん、その日の体調やその仕舞が得意かどうか等もあるとは思うが、普段、国立能楽堂横浜能楽堂の企画公演ばっかりに行っていて仕舞を見る機会のない私にはすごく新鮮だった。

また、以前、仕舞を観たときは、未見の曲の仕舞がほとんどだったので、「ふーん」という以上の感想は無かったのだけど、今回は「白楽天」以外はすべて見ていて、どの場面のどんな内容かがわかっていたので、大変面白かった。そういう意味で、一番面白かったのは、梅若万三郎師の「藤戸」。「弱法師」かと思うような感慨深気な様子で、後はもう回向さえしてもらえば成仏するという感じで、先日観た金剛流の豊嶋三千春師の「藤戸」とはまた違った雰囲気だった。万三郎師だったら「藤戸」全体をどう演じられるのか、とても観てみたく思った。


ところで、仕舞で思い出したのだが、最近、お能を観ていてどうも分からないことがある。それは、演じられているお能に演劇的要素を強く感じる時に限って、何だか今そこで舞われているものがお能に観えない気がしてしまう時があることだ。そう感じることが最近たまたま何度かあり、しかもそれは、大概、人気のある実力派の能楽師の方のものだったので、これは一体どういうことなのだろうか等と思ってしまっていた。

で、色々考えてみたのだけれど、おそらく、「観客をどう意識するか」ということに関するお話なのではないかという気がしてきた。私が気になっている「『お能』っぽくない」という感じがする時、それは具体的にどう感じているのかというと「まるで歌舞伎」という風に感じるのだ。では何故どんな時に「歌舞伎」と感じるのか自問して考えてみると、その一連の所作が、演劇評論家渡辺保氏だったら(じゃなくてもいいんですけど)、「カドカドのキマリ」等と言いそうな感じのところで「キマって」いるように見えるところが、「歌舞伎」っぽいと感じるような気がするのだ。

さらに考えてみると、「キマる」というのは、私の理解では所作や演技の流れの極まったタイミングで静止することという認識なのだけど、私が勝手に思っている「お能らしいお能」では、何となくそのような所作は居心地悪いのだ。何故そういう気がしてしまうのかというと、「キマる」ということは観客に観せることを意識した所作だからと思う。歌舞伎だったらそこで附け打ちが入り、大向こうが入り、舞台写真はこのタイミングで撮られ、観客は観劇した後もその場面を思い出したりするのだ。

一方、私が個人的に「お能」の特徴と思っていることの筆頭は「観客を(過剰に)意識しない芸能である」ということだ。私のそのような認識が、観客を意識しないはずと思っているお能で観客を意識した所作を観るとき、何か「お能っぽくない」と感じてさせてしまっているのだと思う。

それでは、私は「おシテは観客を意識すべきでない」と考えているのかというと、それはよく分からない。何故なら観客のいないお能の公演なんて無いから。

とりあえず、今の私の頭で考えつくのはここまで。ただ、少なくとも言えることは、私が「お能っぽくない」と感じる所作をされた方々というのは、そういう所作をお能の中の一表現と認識されていて、それを通じてその曲の劇的世界を表現されようとしているということだ。ひょっとしたら、ただ単に私の中でお能と歌舞伎は別物という意識が過剰にあって、それでそういうキマった姿に違和感を感じるだけということかもしれないし、ずっと観ていけば私にとっては「お能」のコードを逸脱したようにも見える所作の意味が分かってくる可能性も結構高い気がする。というわけで、これからも沢山お能を観るのだ!

…と、話が逸れましたが、まだつづきます。