国立能楽堂 九皐会百周年記念特別公演 三山 関寺小町(その3)

観世九皐会百周年記念特別公演 先代二世観世喜之三十三回忌追善
能   三山  観世 喜正
狂言  泣尼  山本 東次郎
能   関寺小町 観世 喜之


つづきです。

能 関寺小町 観世 喜之

もっと「定家」とか「通小町」のような悲しく重苦しいお話なのかと思ったが、意外にも、枯れた優しい雰囲気のお話なのだった。そのように思ったのは、ワキの宝生閑師の演じた心優しい住僧の印象も大きいと思う。小町は確かに自分の過去を嘆いて涙ぐんだりもしたのだけど、住僧がその小町の嘆きを受け止めたお陰で、小町はきっとこの後は住僧の介抱で心安らかに暮らせたのではないかという気がしてくるのだった。この曲は、ワキの住僧の演じ方によって、かなり印象が変わる曲なのではないだろうか。

パンフレットの表章先生の解説によれば、室町時代に三老女(姥捨、関寺小町、卒塔婆小町)の最奥の曲と位置づけられて以来、めったに演じられない曲になってしまったのだとか。しかも室町時代末期から今まで途中何度も中絶し、再興した歴史があるという。そして、明治維新以降の「関寺小町」の演能記録33例中27例が観世流だが、観世姓の人は一人も居ないそう。したがって、今回の喜之師が観世姓の能楽師としては初めての例となるという。


後見がサックスブルーに近い浅葱の引き回し幕で包まれた藁屋の作り物が大小前に運び込む。後見も含めて全員長裃。大曲ならでは。


鋭いヒシギの後、囃子と共に子方(梅若志長くん)、ワキ(宝生閑師)、ワキツレ(工藤和哉師、御厨誠吾師、大日方寛師)が橋掛リを通って、舞台に来る。子方はワキ座、ワキは目付柱の辺り、ワキツレはそれぞれ、子方、ワキの隣に並び、向かい合って、次第「待ち得て今ぞ秋に逢ふ 待ち得て今ぞ秋に逢ふ 星の祭りを急がん」を謡う。今日は七夕で、星の祭りが行われるのだ。地取でワキツレは座り、ワキと子方は正面を向いて立つ。

ワキは自分が江州(ごうしゅう)関寺の住僧だと名乗る。今日は七月七日なので講堂にて七夕の祭りを執り行うという。まや、山に歌道を極めた老女の庵があるので、幼い人々を伴って老女の話を聞きに行こうという。
「七夕だから歌道を極めた老女のところに子供を連れて行って老女の物語を承ろう」というのは何か唐突な感じがする。後の問答で分かるのだが、住僧は、最初からこの老女のことを小野小町であると考えていたようである。だから、何かの良い機会があれば本当に小町かどうか確かめたく思っていたのだろうとは思われる。しかしそれが何故七夕なのかは分からなかった。百歳、小野小町、七夕と言われれば、何となく深草少将の百夜通を連想してしまうが、詞章の中には深草少将を思い起こさせる言葉は無いように思う。それとも七夕というのは乞巧奠などの和歌を披講する行事が念頭にあったのだろうか。

話を舞台に戻すと、住僧の名乗りの後、ワキと子方、ワキツレ同士が向い合って、「颯々(さつさつ)たる涼風と衰鬢(すいびん)と 一時(いっし)に来たる初秋の七日の夕べにはやなりぬ」で始まる[サシ]と[上ゲ歌]で、七夕の星祭りの様子、秋草の繁る夕方の山道の様子を謡う。「松風までも折からの 手向けに叶ふ夕べかな 手向けに叶ふ夕べかな」でワキは正面を向いて小さく回ると老女の庵に着いた体となり、ワキと子方は正面を向く。


すると、藁屋の引き回し幕が取り払われる。側面には短冊が右と左に4枚ずつ括り付けられている藁屋の中には、一人の老女(観世喜之師)がいて床几に腰掛けている。面は「姥(うば)」かもしれない。たまご色のすっきりとした顔立ちながら、眉はハの字で目を伏せているので泣いているようにも見えるし、心なしか口元が微笑んでいるようにも見える、得も言われぬ中間の表情。金地と銀地に蔓草の縦縞のあしらワれている段替の唐織を壺折にしている。その下には、納戸色の摺箔にフジ、ひまわり、立葵、牡丹、金の短冊等が散らされている。
実は、事前に詞章を読んだ時に、百歳の姥、七夕というモチーフからの連想で、写真集「演目別に見る能装束」(著:観世喜正師)の最後の方にある九皐会のお宝、「白地廿八宿星」という長絹を着けてくれているのでは、と少し期待していたのだけど、今回の装束は違った。さすがに藁屋に住む関寺小町には合わないのだろう。この「白地廿八宿星」の長絹は、オフホワイト地に金糸で刺繍された丸い星が散りばめられており、その星と星との間を同じく金糸の刺繍の線が絶妙なバランスで繋いでいて、まるで長絹一杯に広がる星座図のようなのだ。写真だけでもうっとりしてしまうので、本物を観たらどんなに素敵だろうと思ってしまう。家に帰って本を確認してみると、残念ながら「姥捨」専用の長絹と書いてある。是非とも喜之師には、近い将来、「姥捨」を舞っていただいて、この長絹の袖がそよと揺れる様子を観せていただきたいものです。


老女は藁屋の中から「朝(あした)に一鉢(いっぱつ)を得ざれども求むるにあたはず 草衣(そうえ)夕べの肌(はだえ)を隠さざれども補ふに便りなし」という「玉造小町子壮衰書」から借りた表現で始まる<サシ>を謡う。
「玉造小町子壮衰書」は、小野小町の老いさらばえ零落した姿を綴った詩ということになっている。以前、小町が零落したという話の元を知りたく思っていたところ、岩波文庫の「玉造小町子壮衰書」を見つけたので読んでみたことがある。けれども、この詩の中には主人公が小野小町だということは一言も書いていないし(そのためか、無理矢理、編集で本の副題に「小野小町物語」と付けている)、小野小町のエピソードも見い出せなかったので、もともとは小町のことを書いた詩ではなかったのだろうと思う。

けれども室町時代にはこの「関寺小町」の小町の最初の詞に「玉造小町子壮衰書」の詩が引かれるくらい、切っても切り離せないイメージになっていたのだろう。この「関寺小町」の詞章の中には他にも<クセ>等で「玉造小町子壮衰書」の影響が見られる詞章があり、少なくともこの「関寺小町」では、零落した小野小町の姿を描くことが主題となっているようだ。これもまた、極度の苦難を引き受けることにより成仏する女性という「中世的理解」の一例なのだろうか?

そして老女は「終(つい)には老いの鶯の百囀(ももさえず)りの春は来れども 昔に帰る秋はなし あら来し方恋しやあら来し方恋しや」と、少しはっとするようなことを言って笛が入り、老女は涙ぐむ。その様子から、この老女は今は落ちぶれているけれども、昔は今と違い憂き目を知らぬ幸福な暮らしをしていたことが偲ばれるのだった。


そこに住僧と子供が藁屋の方に数歩、歩み出ると、住僧が老女に「申すべきことの候」と声をかける。普段住僧が、あなたの評判を聞き及んでいますので、歌の稽古を付けている子供たち物語を聞かせてくれないでしょうか、と尋ねるのだ。

すると、老女は難波津の歌や浅香山の歌を引きながら古今和歌集紀貫之の書いた仮名序の内容を語る。この謡が間合いが素晴らしく、あたかも話して聞かせるような調子なのだった。ワキは着座して話を聞く。

住僧は、さりげなく訪問の真の目的に関する話に近づくために、まずは女性の歌は少ないが「我が背子が来べき宵なりささがにの 蜘蛛の振舞ひかねて著(しるし)も」というのは衣通姫の歌でしょうか、と尋ねる。老女はそうだと認めると、「かたのごとく(まりなりとも)われらも衣通姫(そとおりひめ)の流(りゅう)をこそ学び候へ」と答える。

住僧は、衣通姫の流を学ばれたのであれば、衣通姫の流という小野小町の歌もご存知でしょう。「詫びぬれば身をうきくさの根を絶えて、誘う水あらば往なんと思ふ」という歌も小野小町でしょうか、と聞く。老女は、文屋康秀三河守になった時、三河行を誘われ自分が詠んだ歌だという。

そして、年を経て忘れていたのに、聞けば涙がこぼれる昔話の悲しさよ、というとシオルのだった。


住僧は、そこまで聞くと、小野小町の歌を自分が詠んだ歌だというし、衣通姫の流だというのも小野小町と一致する。百歳ならまだ小野小町は存命のはずだから、どう考えてもこの人は小野小町でしょう、そのようにお隠しにならないで下さい、という。この時の住僧の尋ね方は優しいもので、住僧が小野小町を敬愛していることがよく分かるのだった。だから、今まで自分の正体について何も何も語らなかった小町も、この住僧になら、と名乗る気になったのだと思う。
老女は「いや小町とは恥ずかしや」というと、「色見えで うつろうものは世の中の人の心の花や見ゆる(古今集では「花にぞありける」)」(色にも見せずに移ろうのは世の男性の心です)と詠んだ私であるのに、「詫びぬれば身をうきくさの根を絶えて、誘う水あらば往なんと思ふ」(寂しいので浮き草のように根を絶やして誘う水があればそこに行きたいと思います)という歌を詠んでしまうとは、お恥ずかしいことです、という。


また、このあと<サシ><クセ>で、小野小町の「思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん 夢と知りせば覚めざらましものを」という歌や「あるはなく無きは数添ふ世の中に あはれいづれの日まで嘆かん」という歌を引きながら、「玉造小町子壮衰書」にある栄華を誇った過去の有様を語る。

「関寺の鐘の声 諸行無常と響くなれども老耳には益(やく)もなし」で床几から降り、「逢坂の山風の是生滅法(ぜしょうめっぽう)の理をも得ばこそ」で中正方向を見、「飛花落葉(ひからくよう)の折々は好ける道とて草の戸に」で左手の短冊を一つとり(これで藁屋の短冊の数は七枚となる)、「硯を鳴らしつつ筆を染めて藻塩草」で硯で筆に墨を含ませる所作をし、「かくや言の葉の枯れ枯れに」で扇を筆に見立てて短冊に書き付ける所作をする。「あはれなるやうにて」で再度筆に墨を含ませ、「強からず」でまた短冊に書き付ける。「強からぬは をうな(媼)の歌なれば」でしみじみと書き付けた短冊を眺め、「いとどしく老いの身の 弱り行く果てぞ悲しき」で扇を持った右手でシオル。


ここで稚児が「いかに申し候 七夕の祭り遅なはり候」と声をかける。住僧は稚児の方を見ると「心得申し候」と言い、老女を七夕の手向けの遊びに誘う。小町は辞退するが、住僧は「苦しからぬことただただおん出で候へ」というと、藁屋の老女の手をとって二人とも立つ。

地謡が「七夕の織るいとたけの手向け草 いく年経てもかげろふの 小野の小町の百年(ももとせ)に 及ぶや天(あま)つ星合(ほしあ)ひ 蜘蛛の上日とに慣れ慣れし 袖も今は麻衣の あさましやいたはしや目もあてられぬありさま」と謡うと、「小野の小町の百年に」で小町は杖をついて藁屋を出、脇正側中央に歩いていくと、「目もあてられぬありさま」で思わず座りこむ。この老いさらばえた様子を見て心優しい住僧はいたわしく思ったのだろうか、涙ぐむのだった。

地謡の「とても今宵は七夕の とても今宵は七夕の 手向けの数も色々の」で稚児は小町の方に行き、扇で酌をする。その間にワキ座に退いた住僧は、「あるいは糸竹に かけて廻らすさかづきの 雪をうけたる 童舞(どうぶ)の袖ぞ面白き」で、恐らくここに来る前に住僧は稚児に言い含めていたのあろう、舞を舞うよう促すように稚児を見つめ、稚児は舞を舞う。地謡の「星祭るなり呉竹の」の星祭るで足拍子を踏む。

お酒を呑み、稚児の舞を見て心が浮き立ってきたのだろうか、小町は「よよを経て住む行く末の幾久しさぞ万歳楽」と謡う。子方は舞い納め、シテは「万歳楽」のところで扇拍子を打つ所作をする。

小町は心なしか華やいだ様子で稚児に話しかけるように「あら面白の只今の舞の袖やな 昔、豊(とよ)の明(あかり)の五節の舞姫の袖こそ五度返ししか これはまた七夕の手向けの袖ならば 七返しにてやあるべき」と言うと、「狂人走れば不狂人(ふきょうじん)も走るとかや 今の童舞の袖に引かれ 狂人こそ走り候へ」と言うと、「狂人こそ走り候へ」で杖を使って立ち上がり、杖で表紙をとり、[序ノ舞]となる。


この[序ノ舞]では杖を使いながら一周したあと、杖を藁屋に置いて数歩さがる。そしてよろよろと歩くのだが、猫背で足は引き気味、歩みはとてもゆっくりとしたものだ。腕を上げて舞おうとするが、腕も上がらない。小町は昔を思い出し精一杯舞うがとうとう、シテ柱にもたれかかって座り込み、「ああ疲れた」という感じで遠くを見つめてた後、もう駄目だと下を向く。しかし、しばらくすると元気が戻ったのか、再度立ち上がり、[序ノ舞]の続きを舞う。両方向によろよろとアルクと、一周して杖を右手でとり、杖を左に持ち替えて、扇で舞を舞う。

小町は脇正側中央に来ると、ワカで「百年(ももとせ)は 花に宿りし胡蝶の舞と謡、地謡が「あわれなりあわれなり 老木の花の枝」と引き継ぐ。「さす袖もた忘れ 裳裾も足弱く」でおこつくように数歩さがる。「たち舞ふ袂は翻せども」で小さく一回転し、「昔に返す 袖はあらばこそ」で俯き小さくなり、「あら恋しのいにしへやな」で座り込んでシオル。


「さるほどに初秋の短か夜 はや明け方の関寺の鐘」の「関寺の媼」で下を向き、「鳥も頻りに」で杖を持って立ち上がり、「告げ渡る東雲のあさまにもならば」でワキ座方向を見る。

「はづかしの森の」とシテが謡うと、この後は地謡となり「はづかしの森の木隠れもよもあらじ」で扇を懐にしまい、右手に杖を持ち替え、「暇乞いして帰るとて」で住僧を見て一礼する。「杖に縋(すが)りてよろよろと もとも藁屋に帰りけり」でよろよろと歩き出すと、住僧は思わず身を乗り出して支えようとする。「百年の姥と聞こえしは」で藁屋の作り物に戻り、下居し、「小町が果ての名なりけり 小町が果ての名なりけり」で杖を使って再度立ち上がり、杖をついて藁屋を出る。そして、囃子も留まり、無音の静寂の中を、シテはゆっくり橋掛リを通って去っていくのだった。