国立能楽堂 企画公演 浦島 丹後物狂

◎復曲・再演の会
復曲狂言 浦島(うらしま) 野村小三郎
復曲能  丹後物狂(たんごものぐるい) 観世清和
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3212.html

丹後を舞台にした復曲二題。両方ともそれぞれに面白いお話でした。


復曲狂言 浦島(うらしま) 野村小三郎

年老いた浦島(野村小三郎師)が天気の良い浜辺にやって来る。後から追ってきた孫(野村信朗くん)は釣をするといい、橋掛リで釣り糸を垂らして釣を始める。すると、編笠を亀に見立てて、亀が釣れたという。孫は酒の魚にするといい出すが、浦島はインドの提婆の例を引いて亀は帰してやるのが良いと諭し、亀を海に帰してやる(何故か編笠の亀は自律式でびゅーんと橋掛リを去っていった。どういう仕掛けだったのだろうか?)。すると、亀の精(松田高義師)が橋掛リから現れ、浦島に長寿をさずかる箱を渡す。浦島が箱を開けると…というお話。

パンフレットの松岡心平氏によれば、野村又三郎家にのみ伝わっていた曲とのこと。戦災で台本が消失したものの、残っていたメモを参考に平成11年4月に復曲されたという。

そういえば、以前、三井記念美術館で観た「道教の美術」展で、浦島太郎の説話の結末に関する面白い解説があった。今は浦島が玉手箱を開けたら「太郎はたちまちおじいさん」になるという結末のみが主流となっているが、他にも長寿になった等、いくつかの系統があったそうだ。老人になるという結末は、「むかしむかし浦島は」というあの童謡が有名になってしまったためにポピュラーになったという。この狂言は箱を開けると若返るという結末。若返ったはいいけど、老人の息子であり孫の父親である人より見た目が若くなっていたら、それはそれでまた狂言のネタになりそう…。

小三郎師は、尉系っぽい面をして杖をつき、ひどい猫背で膝を矯め、足はよたよたと引きずってようやく歩く。声は掠れ気味、発音も歯の欠けた老人のようなクシャクシャとした発音で(口の中に何か詰め物をしていたのだろうか)、本物の老人のよう。小三郎師の語りはからっと明るくゆったりとしていたし、「ざざんざ 浜松の音は ざざんざ」という謡も謡われたりするので、聴いていると、潮の満ち引きの音がし、潮風がゆったり吹き抜けていく、長閑な浜辺の光景が見えるような気がした。

後半、後シテのような形で、亀の精が賢徳の面に亀の戴冠を着けて出てきて、地謡も付く。となると、複式夢幻能の形式を当てはめてみると、実は浦島がワキで前シテは簑笠の亀という意外に斬新な形式だった?

というわけで、ほのぼのとした、とても楽しいお話だった。大好き。


復曲能  丹後物狂(たんごものぐるい) 観世清和

世阿弥が力を入れていてそれなりに人気があったが中絶してしまった曲の復曲とのこと。初めて清和師の御子息、三郎太くんを拝見しました。


無音のまま、シテ(観世清和師)とアイ(山本東次郎師)が登場する。シテは直面に紫色の直垂、白烏帽子、常座にてシテは自分が岩井某というものであること、子どもが長いこと授からず、天橋立文殊菩薩に十七日間参篭したところ、霊夢によって男子を授かるという宣託があり、花松(観世三郎太くん)という子供を授かったこと、学問のために成相寺という山寺に預けていたが、久しぶりに呼び寄越して学問の状況を尋ねようと思っていることなどを述べる。

岩井某は、ワキ座に着くと、アイの下人を呼ぶ。岩井殿が花松が戻ったかどうか尋ねると下人は昨日は岩井殿がお酒に酔っていたので声をかけなかった、という。岩井某は花松を呼ぶようにいう。

下人が常座に行き花松を呼ぶと、花松が幕の中から現れる。花松は橋掛リから舞台に向かって歩き、下人は花松の後ろに付き従う。岩井某はその間にワキ座の床几に座る。

岩井某が花松に学問の進捗状況を尋ね、花松は教論聖論、歌道を習い覚えたが、未だ法華経の法師品、内典の倶舎論のうち七巻をまだ覚えていない、と答える。さらに岩井某が学問以外に何か身につけたかと問うと、下人が気を利かし、「簓八撥(ささらやっぱち;雑芸の一種)いづれも一段とご器用に候」と口添えすると、岩井殿は急に怒り出し、「児の能には歌連歌のことは申すに及ばず。鞠子弓などまでは子細なし。簓八撥などと申すことは。あの鉾のもとにて囃す京わらんべのわにてこそ候へ」と言い、下人は慌ててひれ伏す。さらに「総じて今日より某が子にてはあるまじいにてあるぞ」と言うと、岩井殿は罷りい出て中入りとなる。


下人は岩井殿を見送ると、花松を立たせるが、花松は悲嘆にくれて泣き出してしまう。下人は自分が良かれと思い、差し出がましいことをしてしまったことを詫び、これは一時のものだから気に病まないように諭す。そして、奥の部屋に直って休むよう花松を促し、花松も退場する。

下人は常座に戻ると、簓八撥の件について、「脇目もふらず巻物を読んでいた花若に稚児達が強いて勧めたため、花松は一旦は断ったが、仮初めに簓を擦り、八撥を打った。すると既に習い覚えている稚児達よりもずっと上手かった。それで、つい嬉しさのあまり報告してしまったのだ」と独り言を言う。そしてその時の稚児達に証人になってもらい花松に罪科の無いことを岩井殿に訴えようと思いつく。

するとそこに天の橋立の海に美しい稚児が身を投げたという報せが届いたという体で、下人は橋掛リの方を見る。そして、下人は名を尋ねて、その返答に「じゃあー!」と叫び、耳を塞いで座り込む。花松が身を投げたのだ。下人は素早く一度舞台中央に出て、自分も入水しようと言うと、橋掛リの一ノ松の辺りまで走り出るが、それよりも冥土でお供が叶うかどうかも分からないのだから髪を切り菩提を弔おうと言うと、常座に戻り、「南無阿弥陀仏」を唱えると、舞台中央で跪いて合掌する。そして、彼も幕に入る。

この間狂言は、アイ一人によって語られるけれども、一人芝居に近く、とても面白い。この部分は、パンフレット解説の松岡心平氏によれば、観世元章(1722年-1774年)の『副言巻』に拠っているのだそうだ。元章といえば、謡の詞章を大幅に改訂した人で(しかし彼の死後、ほとんどの改訂は元に戻されたらしい)、且つ、従来、居語りが多かった間狂言を変化に富んだ内容に変えた人という話だったと思う。元章の在世当時は既に歌舞伎等もあった訳だし、このくらい芝居っ気のある間狂言の方が観客にも好まれたのかもしれない。


後場は、後見が半畳台をワキ座に持ち込み、子方とワキの筑紫の男(福王和幸師)、ワキツレ(従者;永留浩史師、喜多雅人師)の[次第]、「旅に雪間を道として。旅に雪間を道として。我が古里に帰らん」で始まる。ワキツレと子方は地謡前に下居すると、筑紫の男は自分が筑紫彦山の麓に住まいするものであると名乗る。そして、一年前丹後に登ったときに天の橋立で身投げした稚児を救ったこと、その稚児は岩井某という人の子であるが今一度父母を尋ねたいと思っていること、そのために再度丹後の白糸の浜に来たこと等を語る。

筑紫の男は里人(山本則重師)に岩井某という人がこのあたりにいるかどうか尋ねると、里人は今はこの場所には居ないと答える。そこで、筑紫の男は稚児の父母の為に文殊堂にて一七日の説法を行うことを決め、人々にふれ回る。


[一声]で、シテの岩井某が「物に狂ふは五臓ゆゑ。脈の騒ぎと覚えたり。春の脈波弓に弦。掛くるがごとく狂ふにぞ。ありがも匂ひもなつかしき。咲き乱れたる花どもの。もの言うことはなかれども。軽漾(けいよう)激して影唇動かせば。花のもの言ふは道理なり」と謡う。岩井某は、狂い笹の代わりに松を持ち、羯鼓を身に付けている。「物に狂ふは」で一ノ松に行き羯鼓を叩くと「影唇動かせば」で常座に着き、「花のもの言ふは道理なり」の「もの言ふ」で足拍子を踏む。

ここから[カケリ]となり、早い囃子の中、舞台中央に出て足拍子を踏むとまた一ノ松に戻り、「いかに花松」というと、「なうなうそなたへ年の齢十四五ばかりなる児や迷ひ行き候ひし」と言いながら見所を見回す。間狂言があまりに真に迫っていたのでつい下人の方が後悔の念が強いような気がしてしまいそうだったけど、実は当然のことながら、「総じて親の子を思ふほど。かたくななるものは候はじ」、父親こそが誰よりも花松を叱ったことを後悔していて、物狂いになってしまっていたのだった。


そして、前場の出来事を父親の視点で語る。彼は花松を寺から呼び下し、学問の様子を尋ねたところ、進捗はかばかしかったので父は大変喜んだのだが、よしなき者が簓八撥の上手と言ったため叱ったところ、花松は幼心にも情けなや(と言いながら岩井某は下を向く)と、父を慕って橋立の海に身を投げた、と幕の方を見ながら悔恨を込めて語る。「酔ひ覚めて慌てて騒ぎ行きみれども」で足早に歩き二ノ松へ行き、「前世のことにや。死骸をだにも見候はで・かように狂いめぐり候。」で正面を向き動揺するように後ろに数歩下がる。「その時は恨めしかりし簓八撥も。今は我が子の形見と思へば。なつかしうこそ候へとよ」で装束に付けている岩井某が身に付けてる羯鼓(簓を象徴している)をしみじみと見る。そしてゆっくりと座り込むと、羯鼓が花松かのように扱うのだった。

そこに文殊堂で説法があるという話を聞いた岩井某は、聴聞しようとして説法場に赴くべく、常座から舞台中央に向かう。しかし、狂人であることを理由に筑紫の男に止められてしまう。岩井某は「仰せ尤もにて候へども。物狂も思ふ筋目と申事の候へば。御説法の間は狂ひ候ふまじ」という。筑紫の男はその言葉を聞くと納得し、「さらばそのところにて静かに聴聞し申し候へ」と言う。この辺りの会話は「物狂」が現在の定義である「精神的に異常な人」とは違うことの傍証でもあるかも。岩井某は常座で下居して、羯鼓を手前におき、松は後見が預かる。

導師である花松は半畳台に乗り、半畳台の上の床几に座る。導師が説法を始めると岩井某は導師の方を見る。岩井殿は「阿弥陀なまみだ」を唱え合掌する導師を身動ぎもせずじっと見つめていたが、導師を見て無意識に心が騒いだのだろうか、そこから囃子が入り[羯鼓]となる。岩井某は羯鼓を着けると羯鼓を打つ仕草をして立ち上がる。足拍子を入れながらテンポの速くなった囃子に合わせて舞うと、座って羯鼓を抱え込む。


物狂いの体をした岩井某に筑紫の男は「さればこそ狂ふまじいと申しつるが。狂ふて説法の座敷をばっと冷まいて候。かかる思ふこともなげなる物狂いこそなれ」と言う。すると岩井某は自嘲的に「なに思ふこともなげなる物狂と候ふや」というと、感極まって「思ふこと。思ふこと。なくてや見まし与謝の海の。天の橋立都なりせば。都鳥と申すは。在中将の筆の跡。子を詠める歌なり。我らも子の弔いにや。南無阿弥陀仏」と言う。「都鳥と申すは」で舞台を一周し、「筆の跡」で扇を筆に見立てて歌を書く体で後ろに下がり、「我らも子の弔いには」で舞台中央に座って合掌する。

この「我らも子の弔いには」という言葉を聞いた導師は筑紫の男を通じて物狂となった岩井某に自身のことを語るように言う。岩井某は<クリ><サシ><クセ>で、この天の橋立の文殊堂にて一七日参篭し子供を授かったこと、寺に子供を預けて学問をさせたこと、子供を叱ったところ子供が父に憎まれたと思い身を投げたこと、それ以来夫婦で家を出て国中を探しまわったこと、しかし見つからずとうとうこの橋立に戻ってきたこと等を語る。「いとけなき心に。諌むるをば知らずして。まことに恨むぞと心得。浦の波間に身を投ぐる」の「浦の波間に身を投ぐる」で中正方向を見、「父母後悔千万にて」でしおり、「せめて変はれる姿をも。あひ見ばやと思ひて果てしところを尋ぬれども」で橋掛リに行き、「うたかたの。波間に消えて跡もなし」で一ノ松付近の柱の辺りで座り込むが、「思ひのあまりに。心空にあくがれて」で立ち上がって再度舞台に入り、「狂人となりぬれば」で目付柱に向かい、「国を回りて尋ぬれど」で舞台を回る。

岩井某は、「恨めしの御本尊や」というと、地謡が引き継ぎ、このように縁の無い子を何故賜ったのだろう。せめて我が子が身を投げたのと「ひとつところに身を投げて」で座り込み、浄土で縁を結ぼうと「思い切りたる」で後ろに下がり、「導師も憐れみて我が跡弔いて賜び給へ」と岩井某は導師の方を見て目礼する。

筑紫の男はそれを聞くと、「さらば急いで因縁説法を御述べあらうずるにて候」というと、導師は、今聞いた岩井某の話を改めて語るが、その語りは、岩井某の子が父を恨みこの海に身を投げたところから、さらに「をりふし筑紫舟の船頭取り上げ筑紫に下り。彦山に上せ学問の奥義を極め。またこの国に帰りて問えば。父母の行きかた知らずと申すほどに。親のために七日の説法を説き」と続き、岩井某は思わず導師の方を見ると、ああここに居るのは…!という感じで見つめる。子方はそのまま「その後身を投げ空しくなるべしと思い切りたるは。この法師の身の上にて候」という。

岩井某は「あれは我が子の花松と。言はまほしくは思へども。姿に恥じてかなはず」と言い、橋掛リに行って後向きとなる。確かに今は花松は立派な導師となり、父の岩井某は物狂となり、導師の父と名乗るのは父親としても花松のためにも恥ずかしく思われたのだろう。一方の花松は「よくよく見れば面影の。そのいにしへにたがはねば。高座の上をこぼれ落つ」で半畳台を降りる。

二人は「あれは我が子か」「父御前か」とお互いに確かめ合うと、抱き合って座り込む(ここで後見が松と羯鼓をシテに渡す)。「さてあるべきにあらざれば。我が古里に立ち帰り。元のごとくにさかえけり」で父は子に松と羯鼓を渡すと、子は松と羯鼓を掲げて持ち、父は後ろから子を支え、子は改めて合掌し、「これも思へば橋立の。大聖文殊の利生なり大聖文殊の利生なり」と地謡が謡い納めると、二人は橋掛リを古里に帰っていくのだった。


松岡心平氏は解説で「『丹後物狂』は、父は子を、子は父を一度視界から見失わなければ、両者の再会、人間としての出会いは果たされないという、父子の普遍的テーマを内に含んで進行する一種のホームドラマ」としている。私は父から見れば娘という立場なので、「父」と「息子」の関係性というのはよく実感できないけど、とりあえず今は実家とは別のところに住んでいるので、もっと普遍的に「親と子は離れてみて初めて理解できることがある」ということは分かるように思う。それにしても、もし、「子供は身を投げ瀕死の経験をし、父は物狂となって国中を探しまわった末でやっとお互いに和解できる」というのが、このお能での文殊菩薩の計らいなのだというのだとしたら、父と息子の関係というのも、なかなか大変なものだ。しかし、家族ぐらい近しい人間関係というのは、お互いに成長していくには本来そのくらいの葛藤を伴なうものなのかもしれない。清和師がこの能を復曲し御子息と共演されたのは、将来、三郎太くんが成長と共に彼が経験するであろう父との関係に対する葛藤について、父として伝えておきたいことをこの曲に託したかったのかもしれない、等と思った。