国立能楽堂 普及公演 蟹山伏 春日龍神

国立能楽堂 普及公演  蟹山伏 春日龍神<月間特集・南都千三百年>
解説・能楽あんない 春日に浄土のあること−「春日龍神」の説話的背景  田中 貴子
狂言 蟹山伏(かにやまぶし) 大藏吉次郎(大蔵流
能  春日龍神(かすがりゅうじん) 金春安明(金春流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3213.html

春日大社にはいろいろな興味深いエピソードがあって、いつも心惹かれる。明恵上人も大好きだし、とっても楽しみにしていた公演。


解説・能楽あんない 春日に浄土のあること−「春日龍神」の説話的背景  田中 貴子

先生のお話によれば、春日には浄土と地獄があるらしい。というのも、春日の里は補陀落浄土と考えられており、また、春日明神の本地仏が地獄にいるという地蔵菩薩であることから、地獄もあると考えられていたのだという。浄土も地獄も揃っているなんて、便利(?)。さすが、もとのみやこです。

それから興味深かったのは、このお能の名は「春日明神」ではなくて「春日龍神」であり、春日明神は出てこないというお話。田中先生は同様の例として「石橋」を挙げられ、「石橋」も獅子だけ出てきて文殊菩薩は出てこないと付け加えられた。うーん、私は「石橋」に文殊菩薩が出てこない訳は、このお能文殊菩薩に触れられているのはあくまで獅子を出すための方便だからであり、そもそも作者は文殊菩薩を本当に出す気はさらさらなかったのではないかと勝手に想像していた。実は何か共通する約束事があるのだろうか。

一方、このお能で「春日明神」ではなく「春日龍神」であることの説明は何となく想像がつきそうだ。というのも、このお能の中では明恵上人の入唐渡天を留めたのは「春日龍神」ということになっているけれども、「春日権現縁起絵巻」では、橘氏の女(むすめ)ということになっているし、明恵上人伝でも親戚の女性ということになっているからだ。この二つのエピソードに共通する点は、明恵上人の熱狂的な信仰者である女性が神託を授かり、明恵上人を留めるという点だ。恐らくお能では女性が留めたという俗っぽさを嫌い、「龍神」の神託になったのでは、という気がする。「変成男子」というめんどくさい制度(?)があり、法華経提婆達多品で竜女が成仏する際、一度男性になって成仏したと信じられていたので、龍神ということになったのではないだろうか。


それから、そもそも春日明神は鹿島大社から引っ越してきたのだというのだ。そういえば鹿島大社も鹿が神使だった。それから、江ノ島と、厳島神社もつながっているらしい。そーだ、厳島神社も鹿が神使だ。江ノ島はどう関係あるのかよくわからないけど。


ほかにもいろいろ聞いただが、ほとんど忘れてしまい残念。とにかく春日大社自体がエピソード満載だし、かつ、龍というのもいろいろ複雑な生き物なので、その二つが絡むと私の頭はこんがらがってしまう。こんな話をこともなげに説明される田中先生はすごい。でもって、私は恥ずかしながら、そも、春日龍神とは何ぞ、というところも未だ分かっていないのだ。


狂言 蟹山伏(かにやまぶし) 大藏吉次郎(大蔵流

山伏(大蔵吉次郎師)が強力(宮本昇師)を連れて故郷に帰る途中、蟹の精(大蔵教義師)に会う。蟹は橋掛リを横歩きしながら山伏達に攻撃を加える。たまらない山伏は法力を以て反撃しようとするが…というお話。

どうやってこんな話を思いついたのか、無茶苦茶シュールなお話。蟹の精が蟹という面をし、両手を肩の高さに上げてチョキの手をしながら横歩き(横走り?)して橋掛リを一定の間で行き来し続ける蟹の精の姿は、モダンダンスを観ているよう。面白いか面白くないか聞かれてもちょっと答えられない、不思議な狂言でした。


能  春日龍神(かすがりゅうじん) 金春安明(金春流

春日大社に仕候した金春流の宗家による「春日龍神」。なんだかとってもありがたそうだし、爽快感のある曲なのでした。


囃子方地謡が舞台に揃うと、先日「烏頭」で聴いたのと同じような旋律(?)の笛が鳴り、ワキの明恵上人(飯富雅介師)とワキツレの従僧(原大師、椙元正樹師)が橋掛リを歩いてくる。明恵上人はワキ座付近に、従僧は脇正側に並んで向き合うと、[次第]「月の行方もそなたぞと、月の行方もそなたぞと、日の入る国を尋ねん」を謡う。そして、明恵上人が名乗りで入唐渡天の暇乞いのために春日に参詣しようと言う。

道行で、愛宕山、樒(しきみ)が原、双の岡、奈良坂、三笠山等を通って春日の里に着くと、明恵上人と従僧は春日大社を参詣することにし、従僧の「尤もにて候」という言葉と共に明恵上人はワキ座に、従僧は地謡前に着座する。


するとヒシギが入り、[一声]でシテの宮守の翁(金春安明師)が橋掛リに現れる。宮守の翁は、小尉の面、烏帽子、オフホワイトの縷水衣、白大口、右手に萩箒(竹箒のようなもの?)という出立。春日大社の格の高さ故なのか、「石橋」や「田村」の前シテのように童子ではなく、品格のある翁なのだ。ただ、橋掛リを歩くとき、飛び石を一歩ずつ踏むような不思議な歩き方をされていた。何だったのだろう、単に足袋の滑りが悪かったのかしらん。

宮守の翁は常座に来ると正面を向き、「晴れたる空に向かへば、和光の光、あらたなり」で始まる、春日の里と春日大社を讃える謡を謡う。そして、ワキ座の明恵上人を見ると、「や、これに渡り候ふは明恵上人にてござ候ふよなう、この程はご参詣もなくて、神慮も心もとなう思し召すところに、ただ今のご参詣こそ返す返すも有り難う候へ」と声をかける。このお能でもそうだけど、明恵上人は春日大社にとって、後に出てくる解脱上人と共に、特別な人だ。明恵上人自身、彼の「夢記」の中で春日明神の夢を見たことを記しているけれども、春日明神も明恵上人が大好きで相思相愛なのだ。明恵上人は若い頃、ご近所の東大寺華厳宗を学んだり春日野の森で瞑想をしていたりしていたので、明恵上人にとっても春日明神は特別の存在だし、春日の里の人々にとっても、地元のヒーローという感じだったのかもしれない。

明恵上人が、入唐渡天の志があるので暇乞いに来た旨を翁に伝えると、翁は「これは思ひの外なる仰せかな」と驚きく。そして、何も天竺まで行かなくとも、春日の宮寺は、お釈迦様が法華経を説法をしたという霊鷲山(りょうじゅせん)であり、春日明神は明恵上人を太郎と頼み、笠置(かさぎ)の解脱上人を次郎と頼み、両のの眼(まなこ)左右(さう)の手の如くに思し召して、いとほし悲しと思し召しているのに、日本を捨てて行くとはどうして神慮に背くことができるのだろう、と嘆く。

明恵上人が尚も、入唐渡天は仏跡を拝むためなのだから、神慮に背くはずはないでしょう、と翁に言う。すると翁は、上人が初めて参詣した時、人間は言うに及ばず、「三笠の森の草木の風も吹かぬに枝を垂れ」で中正方向を見、「春日山野辺に朝立つ鹿までも、皆ことごとく出向ひ、膝を折り角を傾け、上人を礼拝する」の「礼拝する」で上人の方を見ながら片手で上人を拝む。それなのに「真の浄土はいずくぞと問ふは」で舞台を一周し、着座して、果てを知らない心だ。ただ、神慮を崇めてここに留まって下さいませという。

ここから<クリ><サシ><クセ>で、天竺の仏跡と春日の関係について翁が語り明恵上人が春日に留まることの利益を説き明かす。

実は、新潮古典集成の「謡曲集」(たぶん観世流)では、この<クリ><サシ><クセ>の前に明恵上人が「なほなほ当社のおん事くはしくおん物語り候へ」ということになっている。が、今回の金春流の公演ではその台詞は無かった。

確かに、ここで明恵上人が「詳しく御語り候へ」などというと、もうすでに春日に留まる方向に心が傾いたような感じになってしまうが、この<クリ><サシ><クセ>の前に明恵上人の心が春日に留まる方に傾くというようなことは無いように思う。というのも、明恵上人の入唐渡天の志は並大抵のものではなく、明恵上人は仏法を極めるというよりも天竺のお釈迦様を慕う気持ちの方が強かったし、玄奘法師をはじめとする渡天した人々のことを調べ上げ、天竺に着くまでの行程のスケジュールまでシミュレーションしていたのだというだから、春日にも天竺の仏跡の代わりはあるからというような「まにあわせ」では、明恵上人はとうてい納得しないように思われるのだ。もっとも舞台の流れ的には、リズムを作るために、この<クリ>の前にワキが何か一言、言って欲しいというのはあるかもしれないけれども。

というわけで、今回の公演の通り、「なほなほ当社の事を」を削除して前場の最後に納得して渡天を思いとどまるという形を取るのは、明恵上人らしい気がした。台詞一つでも有るか無いかによって結構、違うものだ。

話を戻すと、翁は重ねて、<サシ>で、仏法東漸(ぶっぽうとうぜん)といい三国に流布した後、今は本朝の時節であり、天台山を拝むのであれば比叡山を参り、五大山を望むのであれば吉野筑波を礼拝するべきであり、霊鷲山は今は鷲の御山といい、春日の山なのだから、春日の山を拝むべきなのだ、と上人の方を見ながら言い、ここに笛が入る。

さらに<クセ>で、「釈迦牟尼仏(しゃかむにほとけ)の世に出でて さやけき夜を照らす」という春日明神のご神詠について触れ、利己心にこだわる衆生のために悲しみ、美麗な衣を粗末な衣に脱ぎ代え、「四諦(したい)の御法」(釈迦成道後の最初の説法と伝わる『苦』『集(じゅう)』『滅』『道』の四つの小乗の真理のこと)を説かれた鹿野園(ろくやおん)もこの春日の鹿の園ではなかったでしょうか、と明恵上人の方を見ながら説く。

翁は続けて「そのほか当社の有様の」というと、地謡が引継ぎ、三笠山春日山、宮路、西の大寺の澄んだ月の夜の様子、春日野の八重桜の咲き誇る春の長閑さ等、春日の里の美しさを賞賛する。

さすがに明恵上人もここまで止められれば入唐渡天も思い止まりましょう、という。しかし、翁は重ねて、「なほも不審に思し召さば、今宵一夜を待ち給へ、三笠の山に五天竺を写し、摩耶の誕生、伽耶の成道、鷲峰(じゅぶう)の説法、双林の入滅まで、ことごとく見せ奉るべし」と約して立ち上がる(「伽耶の成道」は明恵上人の台詞)。「しばらくここに待ち給へ」というと、「木綿四手(ゆうしで)の神の告げ、我は時風秀行(ときふうひでゆき)ぞ」(時風秀行は春日明神が鹿島から春日に移る時に具奉した神官)といいながら一周して常座に着くと「かき消すように失せにけり」で後ろを向き、消えてしまい、太鼓の[来序]となり中入。


ここから間狂言となるが、今回は替間「猿之間(さるのあい)」となる。

猿の面をした末社の神(大蔵彌太郎師)が現れる。孔雀のような羽飾りを烏帽子の周りに付け、白の水衣、紫地に丸文尽くしの括袴という出立。常座に歩み出ると、春日の里と仏教の関係について述べる。

曰く、昔、天竺にて衆生を救うために大乗の御法を説いたが、効果がなかった。そひたがって、鹿野園に下って小乗を説いた。これをきき、ことごとく仏果を得たため、この山に勧請した。明恵上人は渡天のため、御暇乞いをしに参詣するが、大明神が明恵上人を大切に思い、時風秀行も明恵上人の入唐渡天を止めた。明恵上人は大願があるので止めることは出来ないというと、時風秀行は、摩耶夫人の誕生から双林の入滅までことごとく三笠の山に映すと言った。と、ここまで話すと、末社の神は上人本人を見つける。

末社の神は自分も上人を説得しようと舞台中央で上人の方を向いて着座し、先の宮守の翁と同様のことを説く。そして、上人の眠気を覚ますために一曲仕ろうというと、「めでたかりける時とかや」と謡い、先日、狂言の「吹き取り」で聞いたのと同様の旋律の笛が入る。末社の神はピコピコとスキップのようなことをしながら時々首の向きをくるっと変える所作をし、扇を使って舞いはじめ、笛も転調して盛り上がる。舞い終わると着座して、「御暇乞い申し候」というと去っていってしまう。


後場は、ちょっと変わっていて、「時に大地振動するは、外科医の竜神の参会か」という地謡から始まり、太鼓入の囃子が始まり、ヒシギが鳴ると、そのままあまり聞いたことのない旋律の笛([早笛])となり、後シテの龍神の出となる。後シテは黒髭の面に赤頭、龍戴、黒と赤の山形文の法被に紅白段替に亀甲繋文の厚板という出立で打杖を持ちつつ、扇を前にさして出てくる。一ノ松の辺りで一度止まり見所の方向を見ると、龍神地謡の掛け合いによって八大竜王の名前が次々と挙げられ、龍神は舞台に出て目付柱の方に行く。地謡が「百千眷属引き連れ引き連れ、平地に波乱を立てて、仏の会座(えざ)に出来して、御法を聴聞する」と謡い、「百千眷属引き連れ引き連れ、平地に波乱を立てて」で龍神は眷属を見回すようにクルクルと回り、「仏の会座に出来して」で常座に座り、「御法を聴聞する」で面を伏せて聴聞をする。

龍神は立ち上がって足拍子をしながら「そのほか妙法緊那羅王」で始まる多数の眷属の名前を挙げ、「恒沙の眷属引き連れ引き連れ、これも同じく座列せり」で、どっかと安座する。「竜女が立ち舞う波瀾の袖」で打杖を持って一周し、「白妙なれや和田の原の、波浪は白玉、立つは翠の、空色も映る海原や、沖行くばかりに月の御舟の、佐保の川面に、浮かみ出づれば八大竜王」となり足拍子をする。このあたりは詞章もスケールの大きい爽快感のある詞だし、地謡も素晴らしいし、舞も素敵だし、大変面白かった。で、この後、[舞働]となるのだが、うっとり見ていたため、全く思い出せず。残念。


そして、八大竜王が、春日野の、月夜の三笠山の雲に上り(で龍神は袖で面を隠し)、地に降りて(と膝を付き)、約束通り、摩耶夫人の誕生から双林の入滅までを映す。龍神は、明恵上人から入唐渡天は留まり、仏跡は尋ねないという誓の詞を得ると、「この上嵐の雲に乗りて竜女は南方に飛び去り行けば」で後ろを向き、「龍神は猿沢の行けの青浪蹴立てて、その丈千尋の大蛇となつて、天に群り地にわだかまりて池水を返して」で常座で左の袖を被き、「失せにけり」で後向きで留拍子を踏む。