国立能楽堂 企画公演 盆山 重衡

<月間特集・南都千三百年>
◎蝋燭の灯りによる
狂言 盆山(ぼんさん) 野村万之介和泉流
復曲能  重衡(しげひら) 観世銕之丞
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3216.html

年に一度の蝋燭能。重衡の桜がロウソクの焔に映えて本当にキレイでした。

狂言 盆山(ぼんさん)

近頃、盆山というものが世間で流行っていて、男(野村万之介師)は盆山が欲しい。盆山を持っている何某(野村万作師)に一つ譲ってくれないか尋ねてみるが良い顔をしない。そこで男は、盆山を盗みに行く。状況に気がついた何某は、さんざんになぶってやろうと、いたずら心を起こし…というお話。

万之介師と万作師が妙にニンに合っていて可笑しかった。狂言もまたニンというのはあまり気にしない世界みたいだけど、やっぱりニンの人が演じるのは面白いのだ。


復曲能  重衡(しげひら)

南都1300年の記念シリーズの一環で、興福寺に火を放った重衡の復曲能。「重衡」は修羅能だけど、生前の自分の行為を悔やんでいるのが特徴というパンフレットの解説を見て、なるほど、自分で興福寺に火をつけたのだから、いくら地獄で苦しくても火を放った張本人が救いを求めるというのは、お釈迦様が許すかどうか微妙だなあ、どうなるのあろうと興味がわいた。


ところがところが。実は、何よりも野村萬斎師の間狂言が本当に面白かったのだ。萬斎師がどのくらいすごい狂言師であるかということが少し分かった気がする。実際、ここは居語りだし、あの狂言独特の抑揚で話されるし、例の如く直接体験の話ではなく「詳しくは存ぜねどかくの如く承り候」とか何とかいう伝聞の話なのに、後シテ(=重衡本人の霊)の述懐よりずっと真に迫っていた。興福寺に火をつけて人々が南門の上の階に避難する様子や、重衡が斬首される時に近藤左衛門尉知時を見つけた時のことなど、平家物語に書いてある話なので目新しいことは何もないのだけど、そのいきいきとした語りにすっかり惹き込まれてしまった。

語りというのは本当に不思議だなと思う。私は語りを聴く時、発声とか抑揚、発音、間、旋律、テンポ等々という観点から聴いてしまうけど、実際には、そういった要素が語りを面白くしているかというと、そういう面もあるのだが、ちょっと違う。聴いている者を惹き込む語りというのは、そういった個々の技術的な話とは違う、もっと全く別の何かが重要なように思える(それもまた一種の「技術」なのかもしれないけど)。


とかなんとか色々考えているうちにあっという間に舞台は後場の[カケリ]となって、あっけにとられて観ているうちにお能はおわってしまいましたとやら。