喜多六平太記念能楽堂 二人の会 邯鄲 蝉 當麻(その1)

香川靖嗣 塩津哲生 第二十五回 二人の会

舞囃子 邯鄲 香川靖嗣
狂言 蝉 野村万蔵
能 當麻 塩津 哲生 

香川靖嗣師も塩津哲生師も好きなので、前から「二人の会」は拝見してみたかったのだけど、他の予定とバッティングしたりしてお伺いできなかった。今回はお能が前々から観てみたかった「當麻」だったこともあり、拝見することができて大満足でした。喜多六平太記念能楽堂は初めてお伺いしました。客席数は国立能楽堂より少ないけど、梅若学院の能楽堂のようにアットホームというよりはフォーマルな印象のある舞台。二階席もあった。あそこからはどういう見えるんだろう。


舞囃子 邯鄲

とても面白かった。
舞は詞章でいうと後場の「薬の水も泉なれば 汲めども汲めども いや増しに出づ菊水を 飲めば甘露もかくやらんと」あたりから。[楽]の部分の舞がメインで、「ありつる邯鄲の 枕の上に 眠りの夢は 覚めにけり」あたりまで(だったかな?)。

ここの部分は後場の後半で、主人公の廬生が夢の中で中国の皇帝となり、五十年間、栄華の限りを尽くした末、長寿の薬を飲んで、長寿を得た歓喜の舞を舞う一番の見せ場。前段無しでいきなりここから舞うのは大変そう。しかし、一風変わった囃子ときっぱりとしていながら荘重な舞で、すぐに中国の豪華で荘厳な宮殿の中で舞っている廬生の様子が彷彿とされた。


仕舞と同様に袴姿で舞う舞囃子では、どのように舞っているかがはっきり分かる。そのため、上手い人が舞うと装束を付けて舞うのとは違った面白さがある(とはいっても、お能を観初めて年月が浅く、仕舞を習ったことの無い私が言う「分かる」というレベルなので、単に装束に隠されていない分、所作が見え易いという風にお考え下さい)。私はお能を観るときは装束を観るのも楽しみにしているのだけど、最近、袴姿の仕舞や舞囃子の面白さにも開眼してしまったかも。

ただ、仕舞や舞囃子は、そのお能を観たことがある方が断然面白いように思う。もちろん、純粋にダンスを観るように舞を楽しむこともできるし、謡もあるので舞の内容を知る手立てはある程度あることはあるが、詞章だけでは残念ながらそのお能の全体像は分からない。多分、お能が作られる時は、詞章の創作から始まるのではなく、完成版のラフ・スケッチのようなイメージから始まり、詞章や型付で細かい肉付けしていくのだろう。そして、そのお能を観たことがあれば、その抜粋版である仕舞や舞囃子で演者がどのような意図を以て舞っているのか推察することができる。

とはいえ、面白いと思うのは、「邯鄲」を観たことがあったからこの[楽]の部分で荘厳な宮廷が目に浮かんだけれども、それではお能で荘厳な宮廷の大道具が出てくるかというと、実際には簡素な作り物の一畳台と引立大宮しか出てこない。お能では簡素な作り物を観ながら同時に目に見えない豪奢な宮殿を観、舞囃子では、何もないところにおシテが袴姿で舞う様子を観ながら、同時に壮麗な宮殿や華美な衣装を観ることができる。そこがお能の楽しいところの一つだと思う。


ところで話を戻すと、この舞囃子では廬生が一炊の夢から目が覚める瞬間で終わった。香川靖嗣師の廬生は目が覚めた後、人生について、一体、どう悟ったのだろうか。気になる…!


狂言 蝉 野村万蔵 

僧が信濃の国の上松の里を訪れると、木にくくり付けられた短冊に「蝉の羽にかき置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな」と書き付けてあるのを見つける。不審に思って里の人に訪ねると、昨年、烏に食べられてしまった蝉を弔うためにそうしているのだと答える。僧がその蝉のために回向をすると、そこに蝉の霊が現れ…というお話。

以前、狂言小舞として観た「通円」(お能の「頼政」のパロディ)と同じカテゴリなのだと思うが、お能の形式をそっくりそのまま借りた狂言


見所の感じからそれほど大盛り上がりという感じではなかったけど、とてもパロディらしいパロディで、私はこういうのは大好き。

どのあたりが面白いのかというと、普通、お能では、有名な和歌や物語等から引いた「誰でも知っている人」の「誰でも知っているエピソード」が話の核となっていることが多いけれども、この場合は主人公が、(きっと当時は)どこにでも鬱陶しくなるほどいる「蝉」が主人公という発想が素晴らしい。それに蝉が烏に食べられてしまうなんて、ひと夏に一体何度起こるか分からないくらい日常茶飯事でお話にすらならない。そういうものを、「源氏物語」の空蝉のエピソードや歌を借りたり、善知鳥の後場の後半を引いたような場面があったりすることで、本歌のお能に遜色ないくらい「お能お能した」曲に仕立ててある。もちろん、狂言方も大真面目に演じ舞っている。しかし、所詮は、烏に食べられてしまった蝉のお話。そのあたりの、表面上は全くの「お能」なのに、常に裏切られ続けているところが面白く、まぎれもない「狂言」だなあと思うのだけど、こう書いてもあまり面白さが伝わらないのが、ちょっと悲しい。


この狂言を考えた人は本当に頭がいい。「お能とは、普通は有名人の有名なお話が取り上げられるもので、それを取るに足らない主人公の取る足らないお話にしてみたらどうなるだろう」等とは普通は考えも付かないことなのではないだろうか。私なら一生気がつくまい。狂言にはこの手の「ありえないけど、もしもあったら」の趣向が、ときたまある。このような趣向は、本質的にパロディだからお能にはあまり影響を与えなかったようだが、後の浄瑠璃や歌舞伎には、「実ハ…」というどんでん返しなどの形をとって、結構受け継がれている。だから浄瑠璃や歌舞伎の戯曲のことを「狂言」と言ったり、戯作者のことを「狂言作者」等と言ったりするのかな、等と思ったりしてしまった(←根拠のない妄想なので信じないでください)。


というわけでメモは続きます。