喜多六平太記念能楽堂 二人の会 邯鄲 蝉 當麻(その2)

「二人の会」のメモのつづきです。

能 當麻 塩津哲生師 

前々から観てみたかった「當麻」。去年の春、鶴岡八幡宮の敷地内にある鎌倉国宝館で光明寺鎌倉市)の「当麻寺縁起絵巻」(国宝)を展示していて観に行ってなかなか面白かったので、絵巻の世界がどうお能で表現されているのか興味深く思っていた。恐らく当麻寺にも当麻寺縁起絵巻はあるのだろうけれども、何故か絵巻の画集で観るのは専らこちらの光明寺の方。光明寺版と当麻寺版の内容的な同異については、日本絵巻体系あたりの解説に書いてあった気がするが、今は手元に本がないので不明。

興味深く思ったのは、光明寺の絵巻では別々に出てくる化女と化尼がお能の中では、まるで双子のようにペアとなっていたこと。光明寺の絵巻では別々に出てくることにより、次々と奇跡が起こり、中将姫が一歩一歩、浄土に近づきつつあることが効果的に演出されている。一方、お能では一心同体の双子のペアのように化女と化尼が連れ添っている。しかも化尼はシテツレではなく前シテなのだ。何故なのだろう。当麻寺版の絵巻ではそのようになっているのか、それともこの「當麻」のお能独自の演出なのか、興味深い。


ワキの旅僧(宝生閑師)とワキツレの従僧が舞台に入り、旅僧がワキ座近く、従僧が脇正面側に下居すると、旅僧が、自分は三熊野の下向道で和州当麻寺によりたいと、名ノリをする。その後は従僧が立って[上ゲ歌]の道行となり、「泉の杣木たなびくや」(上掛には無い詞章)で正面を向くと、「雲もそなたに遠かりし 二上山の麓なる」で歩行の体で「当麻の寺に着きにけり」となる。


次に[一声]となるのだが、この一声の小鼓と大鼓が声を長く伸ばさないのが興味深かった。この曲ではここだけで、他の部分では普通に長く伸ばすところでは長く伸ばしていた。他の曲では全然気が付かなかったけど、どうなのだろう。


そして、シテツレの化女(狩野了一師)が先だって橋掛リに現れ、一ノ松の付近に立つと、前シテの化尼(塩津哲生師)が三ノ松のところに現れる。化尼は姥と思える面に、白の花帽子、ブロンズに近い茶地の唐織着流に白、赤、浅葱色等の桔梗と籬の文。化女は紅入唐織の着流で菊の桧垣文の地に菊の文様が散らされたもの。

化尼と化女はそれぞれ三ノ松と一ノ松で、「一念弥陀仏即滅無量罪とも説かれたり。八万諸聖教皆是阿弥陀とも
ありげに候。釈迦は遣り。弥陀は導く一筋に。心ゆるすな南無阿弥。唱ふれば、仏も我もなかりけり。南無阿弥陀仏の。声ばかり。すゞしき。道は。たのもしや。」という詞章をシテ、ツレ、連吟、シテ、ツレ、連吟という形で謡って行く。その後、[アシライ]となり、笛の音の中、化女は舞台中央に、化尼は常座に着く。

二人は向かい合って[次第]の「濁りに染まぬ蓮の糸 濁りに染まぬ蓮の糸の 五色にいかで染みぬらん」を謡う。続けて、弥陀の教えを頼まなければ他にどのような教えがあるというのでしょう、たまたまこの生で浮かばれないのであれば、「また何時の世をまつの戸の 明くれば出でて 暮るるまで 法(のり)の場に交わるなり 御法の場に交わるなり」の「明くれば出でて 暮るるまで」で化女は脇正方向に向かい、化尼は大小前に移動する。

そこに旅僧が化尼に、これは當麻寺でしょうか、と尋ねるね、この池は蓮の糸を濯ぎ清めしその故に染殿の井と申すのでしょうか、と聞く。すると、化尼と化女は、これは染寺といい、またこの池は染殿で(と、下を見やり)、一心不乱に南無阿弥陀仏を唱えるのです、といいながら合掌する。

また、旅僧は、ここにある常の色とは変わった花桜は宝樹と見えます、という。すると二人は、あれこそ蓮(はす)の糸を染めて、懸けて乾(ほ)したという桜木で、蓮(はちす)の色に咲くとも言われています、といい、「ひざくらの 色はえて 懸け蓮(はちす)のいとざくら懸けし蓮の糸の糸桜 花の錦の経緯(たてぬき)に 雲のたえまに晴れ曇る 雪も緑も紅も ただひと声のはんや 西吹く秋の風ならん 西吹く秋の風ならん」の「懸け蓮のいとざくら」で化尼は舞台中央、化女は笛前に移動する。

旅僧が「なほなほ當麻寺曼陀羅の謂はれくはしく御物語り候へ」と促すと、シテは床几に腰掛ける。

この後の<クリ><サシ><クセ>で、絵巻のクライマックスである阿弥陀仏来迎の時の様子が語られる。廃帝天皇の御宇、横佩(はぎ)の右大臣豊成という人の息女、中将姫がこの山にお籠もりになって毎日読誦され、生身(しょうみ)の阿弥陀仏が来迎してそのお姿を拝ませて下さいませと一心不乱に念仏していた。するとそこに一人の化尼が忽然と現れ、中将姫が「これはいかなる人やらん」と問うと、老尼は、「たれとは愚かなり 呼べばこそ来たりたれ」と仰せられたので、中将姫はあきれつつ、「われはたれをかよぶこどり、 たづきも知らぬ山中に 声立つることとては 南無阿弥陀仏の称(とな)へならで また他事もなきものと」と答えると、「それこそわが名なれ 声をしるべに来たりけり」と宣ったのだった。
それを聞いた中将姫は、自分の立てた願が成就し、来迎を得たのだと感涙されたのだった。


さらに化尼は、今宵は二月中の五日で時正(じしょう)、彼岸の中日で釈迦入滅の日で、法事をなすために来たのだ、という。そして、「今は何をかつつむべきそのいにしへの化尼化女(けにけじょ)の夢中に現(げん)じ来たれり」と言い終わらぬうちに、光がさして花が降り、異香薫じ音楽が聞こえると、「恥ずかしや旅人よ 暇申して帰る山の 二上の岳とは二上の山とこそ人は言へど まことはこの尼が 上りし山なる故に尼上(にじょう)の岳とは申すなり」の「暇申して帰る」で化尼は床几から立ち、常座の方に歩きだし、「老の坂を上(のぼ)り上る」で橋掛リに数歩行くと、「雲に乗りて上がりけり 紫雲に乗りて上がりけり」で手に持っていた杖を捨てて、化女と共に紫雲
に乗って橋掛リを帰っていくのだった。


この後、間狂言となり、門前の男(野村萬師)が曼陀羅堂に日参しているが今日は遅くなったと言いながら現れる。旅僧が曼陀羅の謂われを尋ねると、門前の男は以下のように答える。

廃帝天皇の御時、横佩豊成のご息女、中将姫が、さる子細あって雲雀山に捨て置かれられた。それでも中将姫は山中の草庵で念仏三昧に暮らされた。その後、中将姫は無事見つけられ都に帰ったが、中将姫の道心は深く、殿中から逃げ出し、當麻寺に来て大本願を奉った。この當麻寺を出ずに念仏三昧をしていると、ある日の夜半、阿弥陀如来と中将姫は言葉を交わすことになる。阿弥陀如来がおっしゃることには、九品の様態?を曼陀羅にかける。化尼化女が来て、九品の様態をことごとく曼陀羅に織りつけた。曼陀羅は一丈八尺の広さで軸が無かった。いかがあるぞと思ふところ、一夜のうちに見事な竹が現れ、その竹を使って曼陀羅の軸とし、当寺の宝物となった。中将姫は歌舞の菩薩の化身であり、涅槃の頃、大往生を遂げたと承っております、と門前の男はいうのだった。そして、しばらく御逗留あって信心すれば、中将姫が現れるかもしれない、と告げる。


ここから後場となり、旅僧がワキ座で拝んでいると、ヒシギと太鼓入の囃子が奏され、中将姫が現れる。中将姫は泥眼のような面に、白い蓮花の天冠、辛色地に二重蔓唐草文の舞衣、同色の大口、巻物という出立。

中将姫は橋掛リから常座に着き、大小前に移る。「惜しむべしやな 惜しむべしやな 時は人をも待たざるものを 即ちここぞ 唯心の浄土経 戴きまつれや 戴きまつれや 摂取不捨」で、中将姫は旅僧に巻物を渡し、旅僧は巻物を広げる。

そして旅僧が「為一切世間。説此難信之法。是為。甚難」と書かれた巻物を読む。そして、「げにもこの法 甚だしければ信ずることも 難かるべしとや ただ頼め ただ頼め」で扇でさす。そして「慈悲加祐。令心不乱。乱るなよ。乱るなよ」で袖を返し、「十声も。一声ぞ」で舞台を回ると、「有難や」で合掌し、[早舞]となる。

[早舞]では、途中、笛が転調したのが面白かった。「後夜の鐘の音」で中将姫は足拍子を踏むと、「いろいろの法事 げにもあまねき 光明遍照 十万の衆生を ただ西方に迎へ行く」でワキ座方向を見ながら「御法の舟 水馴棹 御法の舟の さを投ぐる間の 夢の夜はほのぼのとぞ なりにける」で中将姫は橋掛リで足拍子を踏むと、そのまま静かに去っていくのだった。