国立能楽堂 普及講演 入間川 梅枝

解説・能楽あんない 楽器に込められた想い  増田 正造
狂言 入間川(いるまがわ) 茂山七五三(大蔵流
能  梅枝(うめがえ) 粟谷能夫(喜多流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3218.html

「梅枝」は類曲の「富士太鼓」に比べて上演がまれだそうだけど、私は国立能楽堂の企画で、08年1月に梅若玄祥師の「梅枝 越天楽」を観ていて今回が二度目の「梅枝」。玄祥師の「梅枝 越天楽」は特別な演出で太鼓が入って富士の妻が太鼓を打つ音を再現するという趣向があったこと以外は、あまり細かいところは覚えていないので残念。今回改めて観てみて、囃子がなかなか面白く、さすが楽人を題材としたお能だという印象だった。一方の「富士太鼓」はどんな感じなんだろう。「梅枝」は複式夢幻能の形式になっていて、「富士太鼓」は現在能というから、何となく「梅枝」の方がロマンティックな感じがしそうだけど、機会があれば是非「富士太鼓」も観てみたい。


解説・能楽あんない 楽器に込められた想い  増田 正造

面白かったのは、世阿弥の著書の中には囃子に関する記述がほとんど無いという話と、世阿弥時代は尺八で謡のチューニングをしていたらしいというお話。

囃子に関しては、世阿弥は自分自身、舞い手として名人だったわけだから当然囃子に関しても一家言もっていなかった訳はないように思う。それでも自著で囃子にふれていないのだとしたら、逆に自著では、自分が余程自負できるような内容しか書かなかったということなのかも。

それから尺八で謡のチューニングをしたというのは私にとってはうれしいお話。謡は旋律がメリハリがある方が絶対に面白い、と私は思う。そして旋律を重視するなら、やはりチューニングは欠かせない。世阿弥もそう考えていてチューニングを行っていたのではないだろうか。


それから、敦盛の「青葉の笛」について。敦盛の持っていた笛は、実は「小枝(さえだ)」というのだそう。「青葉の笛」という名は、お能の「敦盛」からの別名なのだとか。そういえば、「敦盛」の前場の草刈男(実ハ敦盛)の謡に、

シテ「遊ぶも。」
地謡「身の業の。好ける心に寄竹の。/\。小枝蝉折さまざまに。笛の名は多けれども。草刈の 吹く笛ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。これは須磨の塩木の海人の焼きさしと思しめせ海人焼きさしと思しめせ。

という謡がある。それに、岩波文庫の「平家物語(三)」の「敦盛最期」を読み返してみれば、「件(くだん)の笛は、おほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はれたりけるとぞ聞こえし。経盛相伝せられたりしを、篤盛(敦盛)器量たるによッて持たれたりけるとかや。名をば小枝(さえだ)とぞ申しける」とあった。何だかすっかり忘れていたけど、納得。


狂言 入間川(いるまがわ) 茂山七五三(大蔵流

武蔵の国の入間川の付近では、何事も反対言葉にして言う「入間様」という言い方があるという。訴訟を終えた大名(茂山七五三師)と太郎冠者(茂山逸平師)が故郷に帰る途中、入間川を通りかかると、早速、真実と反対のことを教える人(茂山千之丞師)がいる。聞けば、最近は入間様というものは忘れ去られているが、大名が入間様を知っているので面白く思い、使ったという。そこで面白く思った大名は入間の人にどんどん入間様を言わせてみるが…というお話。


七五三師も好きなのだけど、千之丞師の前には、さすがの七五三師も霞んでしまう。その場にいるだけで面白く圧倒的な存在感のある、千之丞師。大好き。


ところで、本当に入間様というような言い方があったり、都の人の間でそのような俗説があったのだろうか。それともこの狂言のための作りごとなのだろうか。もし、本当に前者なら、ぜんぜん狂言と関係ないけど、「伊勢物語」にある入間の里の話がちょっと気になる。
入間郡のみよし野というところに住む人が娘の婚約者の在原業平と思われる男に「みよし野のたのむ雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」(鳴子の音を避けて雁が鳴きながら寄ってくるように娘もあなたの方に心を寄せています)と詠むと、男は「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむ雁をいつか忘れむ」(私に心を寄せているという娘をいつ忘れることがあるでしょうか)と返したという話があるが、これは実は入間の人に向けた入間様の返しだったりして…?(もちろん、『実は男は入間様で返歌をしていた』などという解釈は見たことはありませんです、はい。)


能  梅枝(うめがえ) 粟谷能夫(喜多流


梅枝では、普段は羯鼓台の作り物のみがでるが、今回は藁屋が出る演出だった。したがって、舞台には、まず後見によって納戸色の幕が引き回され、ところどころに茅の束が施された藁屋の作り物が大小前に運ばれてくる。

ヒシギが奏されると、囃子が始まり、ワキの旅僧(宝生関師)、ワキツレの従僧(大日方寛師、野口能弘師)の僧が橋掛リを歩いてくる。舞台に出て、ワキ座近くにワキの旅僧、脇正側に二人の従僧が立ち、向かい合うと、[次第]の「捨ててもめぐる世の中は、捨ててもめぐる世の中は、心の隔てなりけり」を謡う。

旅僧は名乗リで自分が甲斐の国身延山の沙門で、無縁の衆生を済度するために旅をしているのだという。そして囃子が入り旅僧と従僧とが道行を謡い、住の江の里に着く体となる。それと同時に藁屋の幕が外され、シテの里女(粟谷能夫師)が藁屋の中に着座しているのが見える。里の女は、深井の面に、紺と白の段替に菊の文様の唐織着流の出立。

津の国住吉に着くと急に雨が降ってきたので旅僧は宿を借りたいと言う。そして、藁屋を見つけると、この藁屋の人に聞いてみようという。

旅僧に気が付いた里の女が誰なのか訪ねると、旅僧は自分は無縁の沙門であるが、一夜の宿を貸してほしいという。里の女は、僧に宿をお貸しするのは本来利益(りやく)になるものですが、いぶせき小屋でお泊めできないのです、と一度は断る。しかし、旅僧が雨に立ち寄る方なしと尚も宿りを請うと、「げにや雨降り日も呉竹の、ひと夜を明かせ給へ」と言って、藁屋の戸を開ける。

地謡が「西北に雲起こりて、東北に来たる雨の脚、早くも降り晴れて月にならん嬉しや、所は住吉の、旅人(りょじん)の夢を覚ますなよ」と謡う間に、今度は羯鼓台の作り物に舞の衣装が掛かったものが目付柱の脇に置かれる。

旅僧はそれを見て、「これに飾りたる太鼓、同じく舞の衣装の候、不審にこそ候へ」と言うと、里の女は、これは人の形見で、それには哀れな物語があるのです、という。旅僧が語るように言うと、里の女は富士という楽人の物語を語りはじめる。

里の女は、「昔、天王寺に浅間という楽人がおり、住吉に夫の富士がおりました。内裏で管弦(かげん)の役を争い、富士がその役を賜りました。浅間安からず思い、富士を誤って討たせたのです。その後、富士の妻は夫との別れを悲しみ、いつも太鼓を打って心を慰めていましたが、程なくして亡くなりました」と言うと、何度も涙を拭うのだった。そして女は旅僧に「どうぞ逆縁ながら弔って下さい」という。

その思い詰めた物言いと涙を見た旅僧は不思議に思い、里の女に対して「そのように委しくご存じなのは、古への富士の妻のゆかりの人でいらっしゃいますか」と尋ねる。すると里の女は、「これは遙か古への話でゆかりがあるということはありません」と答える。しかし、旅僧が、「それではなぜ深く思う様子で涙を流されるのでしょうか」と問うと、里の女は、「いずれも女は思いが深いものです。ことに恋慕の涙に沈むのを、なぜ哀れとご覧になって下さらないのでしょうか」と言う。しかし、旅僧は、「なおも不審は残ります。太鼓や形見の衣をどうしてここにお残しになっているのでしょうか」と尋ねる。

すると、囃子が入り、里の女は「主は昔になりゆけども、太鼓は朽ちず苔蒸して」というと、旅僧が「鳥驚かぬ」と続け、里の女が「この御代に」と続けると、地謡が引継、「住むかひもなき池水の、住むかひなき池水の」で里の女は立ち上がると、「忘れて年を経しものを、また立ち帰る執心を」でワキの方を振り返り、ワキ方向に行く。「助け給へと言ひ捨てて、かき消すごとくに」でくるっと回り常座で正面を向くと、「失せにけり」で後ろを向いて、「♭シーラソー♭ラーファー」と聞こえる例の笛の音のする中を橋掛リを歩いていき、中入りとなる。


シテが中入りすると、後見が目付柱の脇にあった羯鼓台を正面先に置き直し、羯鼓台の向かって左に掛けてあった舞衣を切戸口に持っていくと、藁屋を橋掛リから幕の中に持ち帰る。


ここから間狂言となり、このあたりの景色を見て心を慰めようとした里人(茂山宗彦師)が旅僧を見つける。旅僧が富士という楽人の子細を語って欲しいと所望すると、里人は「思いもよらぬ御仰せかな」と驚きつつも、自分の知っていることを旅僧に語って聞かせる。里人によれば、昔、奈良で管弦の宴があり、天王寺の浅間という並びなき太鼓の上手が都に召された。住吉の富士も太鼓の上手であったが、お召しはなかったものの、自ら都に推参し、管弦の役を得たいと申し出た。

帝はその場をとりなし、「富士も浅間も互いに面白いが、『浅間燃ゆるといへば、富士の煙甲斐なきや』という言葉があるくらいだから、浅間がやるべきであろう」と答える。帝のお言葉であったので、その後は誰も富士がうまいとはいわなくなった。そこで、富士が憎き振る舞いをすると、浅間が富士の宿に行って富士を殺してしまった。富士の家族はそのようなことを知らず、富士の行方を尋ねて都に来たが、子細を聞いて大変驚いた。形見の太鼓、烏帽子を受け取って帰って弄んでいたが、妻も直に亡くなってしまった。ここはその史跡であり、お僧におかれてはしばらく逗留あって懇ろに弔ってやって下さい、という。

富士と浅間が争っているというのは、その昔は両方とも活火山で煙をたなびかせていたための比喩でよく和歌などにも見かける。天王寺の浅間が呼ばれたというのは、天王寺の方が正統な楽所だったからなのかもしれない。09年6月に国立劇場舞楽を鑑賞した時、解説で「大内(京都)、南都(奈良)、天王寺(大阪)を三方楽所(さんぽうがくしょ)といった」というような話を聞いた。うろ覚えだけれども、大阪は確か天王寺聖徳太子が始めたということで由緒があったが、住吉にも楽人達がおり、今は協力しているような話だったように記憶している。そのような背景から富士と浅間の争い、浅間が召され、富士が召されないという話になったのだろう。

また、召された浅間が富士を討つというのは、不自然な感じがするが、粟谷能の会のホームページの「 『梅枝』と『富士太鼓』の比較、そして「富士殺害事件の真相」 」という演能レポートを拝見したところ、大蔵流の大蔵吉次郎師のアイ語りで「(召されなかった)富士、散々にいいなしければ」というのがあったのだそうだ。今回の茂山宗彦師も同じく大蔵流だが、その点については「富士がにくき振る舞い」という言葉はあったが、「散々にいいなしければ」という言葉はなかったと思う。同じ大蔵流でもやはり家によって語りの細部は違うようだ。


アイの里人が立ち去ると、後場が始まる。

テンポの早い囃子の中で、旅僧と従僧は合掌をしながら法華経を読誦をする。そして地謡の「あるいは若有聞法者(にゃくうもんぼうしゃ)、あるいは若有聞法者」で後シテの富士の妻が幕から現れる。金の鳥兜(烏帽子)を付け、白地の長絹に火焔太鼓、琴、烏帽子、笙、笛等の文様、紺色の縫箔に金の芦、網代舟の文様という出立。「無一不成仏と説き、一度この経を聞く人成仏せずということなし、ただ頼め頼もしや、弔う燈火(ともしび)の陰よりも、化したる人の来りけり。夢か現か見たりともなき姿かな」で舞台常座に着く。

旅僧は、その烏帽子(鳥兜)を被り舞衣を着てさながら夫のような姿の女性を見て「さてはありつる富士が妻の、その幽霊にてましますか」とシテに問う。すると富士の妻は、「碧玉(へきぎょく)の寒き芦、錐嚢(きりぶくろ)に脱す」という和漢朗詠集小野篁漢詩を引き我が身が露見したことを嘆き、シオル。しかし、法華経を読誦してもらった今、変成男子をどうしてご覧下さらないのでしょう、と言う。

そして<クセ>で、地謡で、「さるにても我ながら、由なき恋路に侵されて、永く悪趣に堕(だ)しけるよ。さればにや女心の乱れ髪」の後、富士の妻は「ゆひかひなくも恋衣の」で右手の扇で烏帽子を指す。「夫(つま)の形見を戴き、この狩り頃もを着しつつ、常には打ちしこの太鼓の」の後、「寝もせず起きもせず」で立ち上がると、「涙敷妙(しきたえ)の枕上(まくらがみ)に」でシオリ、「残る執心を晴らしつつ、仏所に至るべし、嬉しの今の教へや」で合掌する。

富士の妻は、さらに「思はじ思はじ、恋忘れ草も住吉の、岸に生ふてふ花なれば、手折りやせまし、我が心、契り麻衣の片思ひ、執心を助け給へや」と謡う。さらに旅僧が(地謡)「懺悔の舞を奏でて愛着の心を捨て給へ」というと、富士の妻は「いざいざさらば妄執の、雲霧を払ふ夜の月も半ばなり、夜半楽を奏でん」と謡い、楽を奏で始める。

ここで、越天楽からそのまま引いた「梅が枝にこそ、鶯は巣をくへ、風吹かばいかにせん、花に宿る鶯」という謡を地謡が謡う。ここのところは、旋律が上下にうねるような音階となり、普通のお能の謡とは少し異なっているのだった。実は、次の国立能楽堂の定例公演で「玄象」を観たのだがその時も同じく「越天楽」の全く同じ詞章が引かれていたが、こちらの旋律はもう少し謡い風に聞こえ、喜多流観世流の違いなのか、なかなか面白かった。とにかく、二つの曲にそのまま入っているくらいだから、「越天楽」は誰でも知っているような曲なのだろう。


富士の妻は、越天楽の謡の間に羯鼓台の前に行き、撥を握ると、[楽]となる。変わった音色の笛が入り、しばらくすると、転調する。笛が転調したのを合図に富士の妻は羯鼓を叩く所作をする(実際には叩かない)。この後また転調し元の調に戻る。依然として笛が中心で大鼓と小鼓はリズムを取るだけとなる。しばらくするとまた転調し、そこはかとなく雅楽風の旋律の笛となる。シテはその間、撥を持ち、ゆっくりと思いを込めた様子で舞を舞う。また足拍子を踏むがこれは音をさせない。

ここでまた笛が「♭シーラソー♭ラファー」で始まる旋律を吹くと、富士の妻は常座に行って、正面方向に踏み出す。すると再度笛が転調し、戻ると、段々囃子のテンポが早くなり、足拍子も激しくなる。


富士の妻は大小前に行き「面白や鶯の」と謡うと地謡が引継ぎ、声に引かれて花の陰から来たけれども、「これぞ想夫恋の楽の鼓、現なの我が身や」というと涙ぐむ。そして、「思へば古への」で扇を開き、「語るはなほも執心ぞと、申せば月も入」の後、「音楽の音は松風にたぐへて」で太鼓を見つめ、「在りし姿は昧旦(あけくれ)に」で常座に行くと、「面影ばかりや残るらん」で後ろを向いて留拍子を踏み、ヒシギが鳴って、富士の妻は消えてしまうのだった。