大槻能楽堂 自主公演能 小督

能の魅力を探るシリーズ 平家物語を観る 「戦いのあわれ!」を語る
能 小督 替装束 観世 清和
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大阪に文楽を観に行くのでついでに、と大槻能楽堂のサイトをチェックしたら、馬場あき子さんが建礼門院徳子と高倉院と小督の話をするというし、「小督」のおシテを清和師がされるというし、大槻能楽堂にも行ってみたかったしで、チケットを買ってしまいました。

大槻能楽堂は、なかなか素敵なところでした。ワキ柱あたりの軒下に釣灯籠があって、それがアクセントになっていて、とても愛らしい雰囲気なのです。音響は残響が結構長く、大鼓が連打される時など、前の音が次の音が鳴る時まで残ってしまっているくらいで、若干響きすぎかなという気もしますが、何故か謡がとてもはっきりと聴き取れるので、全体的には残響の長さはあまり気にならないのでした。


お話 高倉帝・中宮徳子 そして小督局

馬場さんのお話で面白かったのは、何故、徳子が自分の侍従である小督を高倉帝に差し出したのかという理由。その当時は、后は自分の女房達の人間関係を円滑にすることがたしなみとされていたのだそうだ。高倉帝は、小督と会う以前、葵前という身分の低い少女を寵愛したので、葵前と女房達の間に確執が起こり、葵前は亡くなってしまったということがあった。高倉帝はそのことに大きな衝撃を受け今でいう、うつ病になったため、徳子は自分の侍従から葵前の代わりの女性を出すことで、全て丸く収めようとしたということだった。

今の感覚では理解しがたいけれども、当時の徳子や小督だって、喜んでそのような決断をしたわけではないに違いない。徳子が、大物浦で身を投げて源氏に熊手で引き戻された後の出家して大原でつつましやかな生活を営んだことは「大原御幸」で良く知られているところだけれども、彼女は、中宮であったときでさえ、このように決して幸せな生活とは言い難い生活を送っていたのだった。「大原御幸」で六道ノ沙汰を語る時、彼女は、この時代を栄華をきわめた時代として語るけれども、平家が栄華をきわめたその時代の最も高い地位にあった時でさえ、このような苦しい経験をしていたのである。何となく、何の苦労も知らなかった人というイメージを持っていたけれども、本当は普通の人の想像を超えた苦しみの多い人生を送った人だったのだ。


それから、もうひとつ、興味深かったお話は、どうしてシテが小督ではなく源仲国かというお話。馬場さんの考えによれば、小督はこの後、一度は都に戻るものの、結局は出家して不幸な生涯を閉じるので、仲国をシテとすることで、ハッピーエンドにしたかったのでは、ということだった。私も何故、小督がシテではないのだろうと思っていたけれども、納得。

まず、仲国がシテであることで、彼が自分の機転で小督を探しだすという面白さが曲に加わる。仲国の視点で見れば、(1) 嵯峨に住んでいて、(2) 家の戸が片折戸 という全然絞り込めない手がかりだけで小督を探しに行くことになるが、小督と仲国は琴と笛を得意とし、音楽というお互いに心を通じ合わせることのできる言葉を持ち、果たして、かれは小督の琴の音を頼りに小督を探し出したのだった。

また、仲国が、気品があり、もののあはれを知る人であったことも大事な要素だ。仲国が馬に乗って嵯峨に小督を探しに行く段は「駒ノ段」として仕舞等で舞われるが、その颯爽とした仲国の様子が、このお話に少し明るさをもたらすのだった。

さらに、最後、仲国は自分は小督を再度助けにくるだろうと確信して、嬉しさを胸に秘めつつ、小督に見送られながら、馬に乗って去っていく。

さすが、馬場さん&禅竹。こうやって検証してみると、仲国をシテとすることで、基本的には不幸なお話ながら、一時的ではあれ爽やかな結末を感じさせ、仲国をシテにする方が数段面白いのだった。


能 小督 替装束 観世 清和

というわけで、清和師の小督を見ました。気品のある舞をされる清和師は、なるほど、仲国はこういう人なのだ、と思わせるのでした。今回は替装束の小書付きなので、中入り後、直垂から単狩衣と込大口・指貫に装束を替えられていました。
清和師の謡もいつもながら良かったのですが、大槻文蔵師門下の皆様の地謡も大音声で聞いていて気持よく、すっきりとした気分で能楽堂を後に出来ました。