サントリー美術館 記念講演 「蔦屋重三郎という本屋」

サントリー美術館 歌麿写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展におけるエデュケーション・プログラム
記念講演I 「蔦屋重三郎という本屋」
講師:鈴木俊幸氏(中央大学教授)
日時:2010年11月21日(日)14:00〜15:30
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/10vol04/index.html

江戸時代の出版業界の状況や出版物の受容について前々から知りたいと思っていたので、渡りに船と聴講しに伺ったのですが、大変面白い講演でした。蔦屋重三郎といえば、写楽歌麿をプロデュースした人というイメージがありますが、そういったタレントのプロデューサーというよりはむしろ、今でいう広告戦略やメディア戦略を非常に意識した当時としては稀なビジネスのセンスを持った人という主旨のお話でした。


1. 安永期(1772年〜1780年) ― 吉原からの情報・流行発信 ―

(1) 蔦屋重三郎出版事始め

蔦屋重三郎(蔦重)は、新吉原仲之町の七軒(吉原大門<おおもん>を入ったすぐのところに格式の高い、突出して有力なお茶屋が七軒、軒を連ねていた)のうちの一の駿河屋一右衛門の甥にあたる人。

安永という時代は教養の時代で、武士の教養が文化面を支配していたそう。そして、その当時の吉原というのは、鈴木先生によれば怪しい場所というよりは、教養が売りで通人が通う場所であり、武士等が公式には得られない情報を内々に得るための接待などを通じて情報交換を行う場(例えば幕府から藩に莫大な資金が必要な公共工事等を押し付けられそうになるのを事前に察知するとか…)であり、地方から江戸に来た人が必ず立ち寄る観光地だったとのこと。そのため地方の元名主の家などに調査に行くと、今でも『吉原細見』(春秋年2回発行の吉原のガイドブック)が見つかることがよくあるとか。因みに吉原の遊女達も当然のことながら教養を身につけており、彼女たちの昼間の時間の趣味は貸本屋が持ってくる貸本を詠むことだとか。先生によれば、『碁太平記白石噺』の中の登場人物として貸本屋が出てくるらしい。そういえば確かに「揚屋の段」で傾城の宮城野が貸本の『曽我物語』を読んでたなあ。

そして安永という時代は、「格式の高い」吉原が安価に遊べる深川等に押されて下降線を辿っていた時代であり、そのような吉原の「町おこし」のために吉原の首脳達が企画したのが『吉原細見』をはじめとする吉原のガイドブックで、それを発行したのが、吉原の内部関係者の一人である蔦重だったのだそうた。

安永3年(1774)に初めて発行された『吉原細見(細見嗚呼御江戸)』は、板元は鱗形屋孫兵衛となっていて、蔦重は改・卸として奥付に名前が出ているが(本の性質上、情報の鮮度と正確性が命であるため蔦重が監修を行った)、安永4年(1775)秋には既に蔦重自身も板元となっているらしい(『吉原細見 籬(まがき)の花』)。

実は当時の出版業というのは大変な先行投資が必要な事業で、事前に板木を用意したり、板木を彫る職人を大人数確保したりせねばならない。このような資本をどのように調達するのかというと、揚屋がお金を出してお抱えの遊女のペイド・パブリシティのような形にすることによって、資金を確保したのだそうだ。正に、広告だったのだ。


(2) 黄表紙の出版

黄表紙というのは、子供向けの絵草紙を大人向けにパロディにしたものだそうだ。これは最新流行のメディアという位置づけだったそうで、他に洒落本などもその範疇に入るとか。蔦重はその黄表紙分野にも進出する。最初の本は安永9年(1780)『伊達模様見立蓬莱』で、江戸の戯作が吉原で出版されるというのは、異例中の異例だったのだそう。

安永10年(1781)、以前から蔦重の元で遊女評判記等を出していた朋誠堂喜三二(本職は秋田佐竹藩の江戸留守居役)の『見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)』が黄表紙評判記『菊寿草』で巻頭極上々吉に位付をとった。蔦重は大喜びで、当時の大ベストセラー戯作者でスター的存在の大田南畝に逢いに行き、そこから大田南畝と蔦重は懇意になったのだそうだ。


(3) 日本橋通油町への移転

通油町(とおりあぶらちょう)とは今の大伝馬町あたり。こうして蔦重は吉原から江戸に進出したのだった。


2. 寛政期(1789年〜1800年) ― 草紙の広域的流通と書物問屋の仕事 ―

(1) 山東京伝のキャンペーン

とかく歌舞伎などの本を読むと恨み節まじりで語られる寛政の改革だが、鈴木先生によれば、田沼時代に怠けきって教養を無くした武士達に松平定信が嘆いて行った改革で、この改革により武士の間で勉強ブームが起きたのだそうだ。ちなみに先生によれば、当時の町人達は武士をより良い生き方を示すお手本と見ていたとか。本当かなと思ったが、町人の観たり聴いたりする芸能である浄瑠璃の時代物と世話物を考えてみると、確かに武士の活躍する時代物の方が町人の活躍する世話物より教訓的な匂いがしないでもない気がする。

そして、黄表紙の売れっ子作者、朋誠堂喜三二、大田南畝等は武士階級のため黄表紙から手を引き、町人の戯作者を育てることが急務となったのだという。そこでスポットライトがあたったのが町人の戯作者、山東京伝だった。山東京伝の代表作としては寛政3年(1791)の『人間一生胸算用』がある。これは、人間の心は善玉と悪玉の葛藤という主旨の物語で大ブームとなる。歌舞伎で『うかれ坊主』という舞踊で顔に「善」とか「悪」とか大きく書いた丸い木桶を面に転用したものを着けて踊る、ひょうきんな踊りがあるが、考えてみればあれはこの京伝の本から来ているのだろう。

蔦重は京伝に二匹目のどじょう、三匹目のどじょうを狙うよう説得するが、京伝は「二番煎じの茶表紙はことばの花が薄くて人の汲み取ることあるまじ。これは不可ならん」と首を振った。すると、蔦重は、

先生いまだ天地の大イなることを知らず。高麗屋が幡随長兵衛、訥子が頼兼、半四郎が七変化、政太夫が鬼一法眼、幾たびしても大当たりせしなり。なんぞ不可なりとせんや

と言ったとか。「訥子が頼兼」ってなんだろう?先代萩?まあそれはそれとして、この蔦重の物言いは、読み手を若干侮っているようにも読めるが、実はもっと大きいところを見ているのだそうだ。

つまり、蔦重は今までの読者でない層を新たな読者層として狙っているのだという。その新たな読者層というのは、地方の読者なのだという。それまでの、蔦重の本は江戸の地本(その地で出版されその地で消費される本)であったが、当時既に江戸の地本は上方にも読者を獲得していた。そのため蔦重は、「穿ち(うがち)」(江戸の人間にしか分からない洒落や人情の機微等)が中心だった黄表紙を、教訓的な内容にして家族で楽しめる本にしようとし、そのために京伝というブランドを創り上げようとしたのだという。


(2) 書物問屋としての仕事

江戸時代、本には二種類あってひとつは草紙、もうひとつは書物だったのだそうだ。草紙は安価でその時々のものであり、書物は高価で人生・国家・学問に益のあるものを言ったのだそう。蔦重はマージンの高い書物の取り扱いを始、これをテコに新たな広域流通網を作り、地方の読者に書物を販売し始めた。当時、武士の勉強ブームは町人や地方の農村にも波及しており、講釈師を招いての講釈が全国的なブームとなっていたという。当時、農村には人口の七割が居住しており、飢饉等もおきずに安定的な生活を送れるようになった農民が、手習い等をはじめ、村の中で如何により良い生き方をするかといった問題についての興味関心が高まっていたのだという。江戸時代当時の学問というのは四書五経(=倫理)で、蔦重は『四書五経』独習書『よしの冊子』を発行し、ベストセラーとなった。四書五経は本来、先生について素読で覚えるもので、誰でも読める平仮名で書かれた独習書というのは画期的なものだったという。


というわけで、江戸の出版物はこのようにして流通拡大していったのでした。となると次に気になるのは、同時期の京都、大坂の出版事情。機会があれば調べてみよう。