国立能楽堂 普及公演 鬼継子 橋弁慶

国立能楽堂 普及公演  鬼継子 橋弁慶<月間特集・義経をめぐって>
解説・能楽あんない 能のなかの牛若伝説  林望(作家・書誌学者)
狂言 鬼継子(おにのままこ) 山本泰太郎(大蔵流
能  橋弁慶(はしべんけい)笛之巻(ふえのまき) 観世恭秀(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3243.html

今月は国立能楽堂が12月の月間特集で義経伝説の曲を特集した。去年、横浜能楽堂義経伝説の企画公演シリーズがあり、修羅物ばかり観て食傷してしまったのでよっぽど行くのをやめようかと思ったが、「橋弁慶」は観たことないから仕方くこれだけ観ることにした。ところがところが、豈図らんや、林望先生の解説も観世恭秀師のパフォーマンスも大変面白かった。

特に、林望先生のお陰で、義経伝説というのが『平治物語』をはじめとして、『義経記』、『舞の本』(幸若舞の読み本)、『曽我物語』等などの中で微妙に異なる話として収録されているということを知った。またそれらの本やその他の牛若丸・常盤御前をテーマとした草紙・絵巻、それらの解説書等を読んでいくと、室町期に成立した『常盤物語』を中心とする一連の常盤御前の物語群が存在していることが分かる他、それと呼応した現存しない『牛若物語』ともいうべき物語があることもまた推察されること、室町期には清水寺の西門にいる瞽女(ごぜ)達が日常的に常盤御前の話を題材とした芸を披露していたこと等をはじめとする様々な義経伝説(と常盤御前の物語)について知ることができ、大変興味深い。

今まで、通り一遍の義経伝説だけしか知らず、義経伝説は深みがなくどちらかといえば子供向けの話だと思っていた。しかし、義経伝説のバリエーション、各種芸能への採り込まれ方、時代毎にどのように庶民の間での受け止められてきたか等という側面から見ると、大変面白いし、更に調べたくなるような話も資料の中に次々と現れてくるので、探索の手を止めることができない。改めて今月の国立能楽堂はこれだけにしたのを後悔してしまった。やはり、観ないで済まそうとするときは、よくよく検討することにしよう。


解説・能楽あんない 能のなかの牛若伝説  林望(作家・書誌学者)

林望先生のお話は大変面白かった。一つには歌舞伎や様々な芸能・物語等で知った話とばっかり思っていた「橋弁慶」に描かれたテーマというのは、実説がないのに中世に様々な形で取り上げられたテーマであるということ。さらに、お能では「烏帽子折」に描かれる義経元服というエピソードが『平治物語』や『義経記』に既にあるものの内容が異なり(例えば元服する場所が鏡の宿か熱田か等)、これもまたお能幸若舞浄瑠璃等様々な芸能・文芸に取り入れられていることなど。

おもしろかったのは、「橋弁慶」において五条の橋がいかにして舞台として選ばれたかということについて。この橋弁慶の曲の実説は無いそうで、あえて出典を探すとすると、『義経記』の、弁慶が義経から刀を得ようとして一条堀川から清水寺あたりで切り合いをしたエピソードがそれに当たるとか。

それが何故、五条の橋ということになったのかというと、義経にも弁慶にも「五条」との縁があるのだそう。まず、義経にとっては、『義経記』の中で鬼一法眼が義経と淡海をそそのかせて切り合いをさせた場所が五条天神だ。また、弁慶にとっては、弁慶の父の弁昌が母の二位大納言の女と五条天神で出会うのだという。そのようなところから、五条の橋というモチーフが出てきたのではないか、ということだった。


狂言 鬼継子(おにのままこ) 山本泰太郎(大蔵流

女(山本則秀師)が幼子を連れて親のところに行こうと山道を歩いていると、鬼(山本泰太郎師)が現れる。女を食べようとするが女が美しいので、女が妻になるのなら生かしてやろうという。女は身繕いをするから子供を預かってくれというと、姿を消す。鬼は子供を預かって困ってしまうが…というお話。

『子盗人』同様、赤ちゃんをあやす様子が印象的。とゆーか、鬼は子供に「何か芸は無いのか」と言い、子供をまるでペット扱い。「かむりかむり」という頭を振る「芸」以外に、「ちょうしちょうし」(手をたたく)、「がてんがてん」(頷く)、「にぎにぎ」(手を握る)等、赤ちゃんの頃に誰もがやらされることは室町時代から変わらないのでした。


能  橋弁慶(はしべんけい)笛之巻(ふえのまき) 観世恭秀(観世流

「笛之巻」は観世流のみにある小書で、かつては『橋弁慶』とは別曲とされていたとのこと。後場は『橋弁慶』と共通だが、前場が大きく異なる。小書なしの『橋弁慶』と「笛之巻」の小書付きの相違点は、(1) 前シテが常磐御前であること、(2) 千人斬りをするのが弁慶ではなく牛若丸であること、(3) 弘法大師より伝わる笛の由来が語られること、(4) 牛若丸が五条の橋に来るのは、鞍馬山に帰る前に立待(たちまち;十七夜の月)に月を眺めるためであること等だ。林望先生によれば、(2)の千人斬りに関しては千人斬りをする主体が、弁慶と牛若丸の2パターンあるらしい。『橋弁慶』及び小書「笛之巻」では義経、他に、『義経記』は弁慶、『新日本古典文学大系 室町物語集(下)』(岩波書店)に収録されている「べんけいものがたり」には弁慶が千人斬りをするとある。

なお、幸若舞の読み本『舞の本』にも「笛の巻」があるがお能の「笛之巻」とは笛の由来が語られるという一点のみが同じで(しかし由来を語るのはお能の「笛之巻」が常磐御前で、『舞の本』の「笛の巻」では淀の津の弥陀次郎という笛の元の持ち主)、他の部分は全く違う。お能の「笛之巻」と幸若舞の「笛の巻」のどちらが先に生まれたのかは定かではないそう。ところで、牛若丸が持つ笛の名前は「青葉の笛」で、「青葉の笛」などといわれると、お能の「敦盛」で前シテが「小枝の笛」のことを「青葉の笛と思し召せ」などと言ったことを思い出してしまう。由来からして敦盛の笛と義経の笛は別物なのだが、「敦盛」の作者に二本の笛を関連付けたいと思わせる動機があったのだろうか。


舞台に子方(観世喜顕くん)が出てきて地謡前に座る。[名乗リ笛]の後、ワキの羽田秋長(福王和幸師)が名乗り座で、自分が義朝の御内であること、義朝・常磐御前の三男、牛若殿が学問のために鞍馬の寺に上ったが、学問をせず、夜な夜な五条の橋に出て数多の人を斬るので、常磐御前に意見をしてもらおうという。

秋長は一ノ松のところに戻って「いかに申し上げ候、秋長が参りて候」と呼びかけると、常磐御前(観世恭秀師)が金地に秋草文様の着流し、深井の面。幕の内より出てきて「こなたへ候へ」といい、常磐御前も二ノ松に出てきて床几に座る。秋長の話を聞いた常磐御前は牛若の居場所を秋長に尋ね、「こなたへと申し候へ」と言うと、秋長は畏まって常座で子方の牛若丸を呼び、牛若丸は一ノ松に行くと、常磐御前の前で平伏する(ワキは鏡松の前でクツログ)。

常磐御前は、牛若丸が平家の公達と学問で肩を並べて争うのであれば嬉しくもあろうが、学問もせず、夜な夜な五条の橋に出て人を殺していると聞く、本当であれば母と思うな、という。地謡の「思ふまじげに由なやな、かほどに母は思へども、そのかひ更になき上は、叱りても由ぞなきうたての者の心や」というと、常磐御前は涙を流す。

地謡の「よしやよし(ああ仕方がないことだ)親子をも、よしやよし親子をも、思ひ思はぬ仲ならば、なかなかに安からぬ、御身の為は然るべし」で、常磐御前は地謡前、義経は脇正側に着座する。「いかなれば畜類、または空飛び翔(かけ)る鳥も、その理(ことわり)を知ればこそ、鳩に三枝の礼をなし、烏きうきうの孝行なるはいかばかり、などや御身は不幸なる」で、常磐御前は床に手をつき険しい表情で牛若丸を諭すと、「叱れば牛若丸も、手を合はせ立ち寄りて免(ゆる)し給へと泣き居たり」となるのだった。

常磐御前は表情を和らげると(と、表情が変わって見えるところが面の不思議なところだ)、「おことがまだいとけなかりし時よりも、父に離れて無惨やな、敵の手にも渡りなば、いかなる淵川(ふちかわ)の瀬にも沈みもやせましと心にかけて思ひ寝の、夢の一時、花の夕べの山颪(やまおろし)、声高く泣く時は、六波羅の人やもし、聞くらんものを悲しやと、忍び落ちし今思ひ出の涙かな」と昔語りをしてわっと堰を切るように泣き崩れる。

牛若丸は、さすがに母の様子に感じ入り、明朝に鞍馬寺に戻ることを約束する。そして、「さりながらこの笛に、得たる便りのあるぞは、いかなる謂はれ候ふぞ」というと、胸元から笛の入った袋を出す。

常磐御前は、不思議に思うのも道理と言い、その笛は弘法大師ゆかりの笛で、入唐した商人が持っていたもので、虫食いがあるという。牛若丸が、するとその虫喰いが表している文字は何の証(しるし)なのでしょう、今まで人にも母上にも見せていませんでしたが、詳しく教えて下さい、と尋ねる。

地謡が「今こそ委しくは、見も明石潟島隠れ」と謡い出すと、常磐御前は牛若丸から笛を受け取り、「並ぶや蝉のもとに、巻き隠したる錦を、解きてよく見れば」で、袋から笛を取り出して笛をよくよく見る。すると、「不思議やな虫喰ひの、一万五千、三百余歳経て、弘法大師の御手に渡りその後に、義朝の末の子牛若が手に渡るべしと、確かなる虫喰ひ」がある。常磐御前が、牛若丸に笛を返すと、牛若丸は「かたじけなや」と押し戴く。そして改めて常磐御前に平伏する。常磐御前は、「明けなば寺に上るべし、構へておこと偽るな、またよ」と言い捨てると、立ち上がり、「常の住処に入りにけり」で中入り。

牛若丸は常磐御前を橋掛リ付近で見送ると、羽田に、「夜が明ければ寺へ上るが、今宵ばかりは名残なので、立待(たちまち)に月を眺めるぞ」といい、二人も中入り。

[早鼓]の独特の早いリズムの大小の鼓の演奏の後、間狂言となる。

オモアイの洛中の男(山本則俊師)が「助けてくれ」と叫びながら舞台に走って逃げて来ると、それを追いかけてアドアイの洛中の男(若松隆師)が追いかけてくる。アドがオモにけんかを仕掛けているのかと思いきや、アドは、東山に行ったところオモがうろたえていたから追いかけていたのだ。オモは東山に行くのに四条と五条のどちらを通ったかをアドに尋ねるとアドは四条を通ったという。オモは五条の橋に行くと一二才の子が、氷のような刀をするりと抜いて切りかかってきたので逃げてきたという。そしてあれは誰だったのだろうと尋ねる。アドは常磐御前の三男、牛若丸が千人斬りをしているということなので、牛若丸であろうという。二人はきっとそのうちに捕らえられるであろうと言い合う。また今回は命が助かったのでむしろ寿命が長くなるだろうという。

一息ついたオモは背中がヒリヒリして気持ち悪いが見てくれとアドに頼むと、アドは背中が切れていると指摘する。オモは驚いて卒倒するがアドは戯れ言だという。オモが怒って斬られていないのに切れているというのは何事かというと、アドも、切れているかいないか自分でわからないということがあるかと反論する。

そこへ千人斬りが先ほどオモを切れなくて腹立たしかったので追いかけてきたという声が聞こえる。あわててアドが逃げると、オモも慌ててアドを追いかけて逃げていく。


後場となりヒシギのあと、[一声]の囃子が入るが、囃子のテンポが段々と速くなる。牛若丸が、鉢巻姿に萌葱地・金の唐草文様の厚板、白の大口という出立に、白の薄衣で、常座に立つ。

牛若丸は、母の仰せが重いので夜が明ければ鞍馬寺に帰るが、今宵ばかりは名残なので、五条の橋に立ち出て、月の光を待とうという。

牛若丸が五条の橋の風景を愛でていると、囃子のテンポが急速に遅くなり、ゆっくりとしたテンポとなる。牛若丸はワキ座に移動する。

[一声]となり、後シテの弁慶が黒の法被に白地に金の業平菱の半切姿で一ノ松に現れる。大長刀を振りかざすと、「いかなる天魔鬼神なりとも、面を向くべきやうあらじと、我が身ながらも物頼もしうて、手に立つ敵の、恋しさよ」と喧嘩する気満々で格好の相手を探して歩く。牛若は白の薄衣を被いて気配を隠す。弁慶は舞台に出てくると、牛若丸に大長刀を向け、[立廻リ]で緊迫した場面となる。
ここでは牛若丸の白い装束に弁慶の黒い装束との対照が印象的。去年、横浜能楽堂義経伝説関連の企画公演のレクチャーで三宅晶子先生が「人々の間で義経は白、弁慶は黒というイメージがあった」という趣旨のことを説明されていたけれども、この「橋弁慶」は正にその色のイメージを踏襲している。

弁慶は常座に戻ると「見れば女の姿なり、我は出家の事なれば、思い煩ひ過ぎて行く」が、今度は牛若丸が弁慶の長刀の柄元をはっしと蹴り上げる。弁慶は「すは、痴(し)れ者よ物見せん」と、すぐに長刀を取り直し、切り組みとなる。しかし大長刀を打ち落とされ、組もうとすれば斬り払われ、詮方なく弁慶はあきれ果てて立ち尽くす。

弁慶が牛若丸に「不思議や御身誰なれば、まだ稚(いとけな)き姿にて、かほど健気にましますぞ、委しく名乗りおはしませ」と問いかける。牛若丸は「今は何をかつつむべき」というと、自分が源義朝の子、牛若丸であることを明かす。一方の弁慶も西塔の弁慶と名乗り、降参申さんと平伏すると、二人は主従の縁を結び、幕入りするのだった。