世田谷パブリックシアター 能楽現在形 劇場版 安達原 絵馬

能楽現在形 劇場版@世田谷
能『安達原(あだちがはら)』/半能『絵馬(えま)』 12月18日(土)18時開演
能『安達原』 シテ:観世銕之丞 ワキ:殿田謙吉 ワキツレ:御厨誠吾 アイ:野村萬斎 地頭:梅若晋矢ほか
半能『絵馬』 シテ:観世喜正 ツレ:坂口貴信 ツレ:谷本健吾 地頭:山崎正道ほか

『安達原』『絵馬』囃子方
笛:一噌隆之 小鼓:幸 正昭 大鼓:亀井広忠 太鼓:観世元伯

※能『安達原』 シテ:女/鬼女 ワキ:阿闍梨祐慶 ワキツレ:同行の山伏 アイ:能力
半能『絵馬』 シテ:天照大神(あまてらすおおみかみ) ツレ:天鈿女命(あめのうずめのみこと) ツレ:手力雄命(たぢからおのみこと)
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2010/12/post_209.html

能楽現在形 劇場版、こんなに面白いものとは思わなかった。お能ってすごい。室町時代生まれなのに、ちょっと舞台装置や舞台効果を変えるだけで、これだけ現代的でスタイリッシュになるだから。お客さんは普段、能楽堂なんかにはとても来そうもない人々が大多数。萬斎サマの神通力こそありがたけれ。


安達原

開演前にはずっと、高速道路で行き交う車の走行音を録音したような効果音が流れていた。寒々とした野原を風が吹きすさぶような音に聞こえなくもない。パンフレットの土屋恵一郎先生の解説文によれば、「この糸を繰る女(『安達原』の前シテ)は、実は辺境に棲む女のイメージの他に都市の姿が重なっている。論議とよばれる言葉の箇所で、突然、都の情景が描き出されるからだ・その時、この能が、唯、辺境の地の神話ではなく、都市との関係をもった女の世界であることがわかる」とある。ひょっとすると、あの効果音は、「辺境の地の風景を都市に関係させる」安達原という曲の逆を行って、「都市の風景を辺境の地に関係させる」効果音だったのかも。もしそうだったら、とても面白い。実は演能が終わった後にもまた走行音が流れ、まるでプロローグとエピローグのように走行音が使われてて、現在から過去に遡り、お能が終わってまた過去から現在に引き戻されるようで効果的だった。

効果的といえば、能楽堂では普段出てこない様々な舞台措置も非常に興味深かった。例えば、安達原には庵の作り物が出てくるけど、この公演では、底辺が三角形をした三角柱の庵で、正面の白い壁には火灯窓のようにも女面のようにも見える窓があり、そこには紗か何かで出来た布が張ってある。最初は窓の中は暗くて何も見えないのだが、庵の中がぼおっと明るくなると、中には俯いた女が身じろぎひとつせずにじっとしているのが見えるのだった。これはちょっと恐ろしかった。能楽堂で観るときはシテは引き廻しの中にいるわけで、観客は「ああ、この中にシテが居るのだ」と思いながら作り物を見るのだけど、ちょうど観客の想像を視覚化したような演出なのだ。

そしてこの「庵」は実は一枚の板を三等分して折り曲げて作ったもので、この後、庵の室内の場面になると、折り曲げられていた板は広げられ、庵の内部で客間と老女の閨を仕切る壁となったりするのだった。

他には橋掛リが無くて、代わりに舞台奥にいくつかの通路が作られていた。その通路の脇には薄が生い茂り、空には月が出て、まさにこちらも能楽堂で橋掛リを歩くワキを見ながら観客が想像する風景そのままなのだ。安達原には行ったことがないけど、そういえば前に季節外れの秋に霧ヶ峰に行った時には、こんな風に一面薄野が広がっていたなあと思い出した。

この舞台の演出は、能そのものはほとんどいじらず(立ち位置などはかなり違ったけど)、能楽堂で観客が想像するものを現在の劇場で使用できる舞台装置等を使って視覚化するという試みのようだった。さすが能楽界を代表する人々が関わっているだけあって、この試みは成功をしていたように思われる。


絵馬

お能なのに、いやに幕間が長いなあ」などと思っていたのだが、幕が開いた瞬間、幕間が長かった訳がわかった。舞台をスモークで満たしていたのだ。舞台の真ん中をつっきる橋掛リがあって、橋掛リの両脇には、床から照らした何本もの照明が光の円錐体を作っている。まるでファッションショーを見ているみたい。

天照大神の岩戸隠れの再現をする場面で天鈿女命の舞を天女が舞うと、天照大神が出てくる。その時、中央の花道…じゃなかった橋掛リをシテが歩いて来る。最初は、「おー、世阿弥の頃って楽屋が舞台奥にあって橋掛リはこんな風に中央にあったんだった。こんな感じだったのかな?」とかなり興奮して見てしまったのだが、…結論としては、橋掛リは横に付いていた方がいいなと思ってしまった。というのも、舞台の真ん中を歩いて来るというのは、人の注意を惹きつける魔力がありすぎる。もっと正確に言うと、演じられている能そのものではなく、シテを演じている人に注意が行ってしまうのだ。演歌歌手やら宝塚の女優さんが(実際には生で観たことないけどイメージ的に)ステージの真ん中にある階段を降りてきながら歌を歌うというのは、そういう意味で演出的に大正解なのだった。そして、お能では結局、橋掛リは中央から下手側に移動し、名ノリ座というのはテンキー(電卓のキー配列)でいうと、数字の7の場所という随分と奥床しいところにあるのも、神事に近い部分もあるお能で過度に演者をクローズアップしない知恵なのかも、という気がした。思った以上に舞台におけるポジションの意味というのは大きいのだ。

最後は、天照大神だけでなく、天鈿女命と手力雄命も通路に上がってますます華やかに。背後にさっきの「安達原」で使った薄があるのが「高天の原」の風景を表しているのだとしたら、「そりゃ、どっちかっつーとススキじゃなくてアシでしょ!」とツッコミたくなったけど、まあ、似てるから大体OKということで(?)、目出度く幕となったのでした。


というわけで、今年の古典芸能関係の公演はこれで見納めでした。