横浜能楽堂 真奪 花軍

横浜能楽堂企画公演「能・狂言に潜む中世人の精神」 第4回「花」
平成23年3月6日(日) 14:00開演 13:00開場
講演 池坊由紀(華道家池坊次期家元)
狂言「真奪」(大蔵流
 シテ(太郎冠者)山本泰太郎 アド(主人)山本則孝 アド(通りの者)山本則重
能「花軍」(金剛流
 シテ(里女・翁草の精)金剛永謹
 ツレ(草花の精)金剛龍謹 ツレ(草花の精)豊嶋晃嗣 ツレ(草花の精)宇障泓ウ成
 ツレ(草花の精)宇障沒ソ成 ツレ(草花の精)山田夏樹
 ワキ(都人)工藤和哉 アイ(草花の精)山本則孝
 笛:槻宅聡 小鼓:吉阪一郎 大鼓:安福光雄 太鼓:梶谷英樹
 後見:廣田幸稔、豊嶋幸洋、山田純夫
 地謡:宇障汳ハ成、種田道一、廣田泰能、田中敏文
 地謡:坂本立津朗、元吉正巳、工藤寛、熊谷伸一
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/

横浜能楽堂企画公演「能・狂言に潜む中世人の精神」の最終回。

講演 池坊由紀(華道家池坊次期家元)

「中世の人は『場』というのをとても意識していた」というようなお話(ひょっとすると、私の頭の中で話を歪曲してしまっているかも?)が興味深かった。
確かに、平安時代や江戸時代、現代の人と比べれば、戦国時代に生きた人達にとって、未来とはずっと頼み難いもので、「一期一会」という言葉は、一層身に染みて実感させられたことだろう。「場」という言葉は、単なる場所を意味するものではなく、人々が集ったり、そこの文化が生まれたり、はたまた歌に詠われたりすることで、意味を帯び、初めて「場」としての役割を持つ。意味というのは時の流れと共に変容しやすく、それ故、「場」というのは、物理的には確固とした場所でありながら、捉えがたい、移ろいやすいものだ。中世の人が「場」を大事にしたというのも、未来が頼み難いが故に今という時間を大切にするという思想なのかも。そう考えると、中世の人々が、生花やお能、茶道等を通じて、今という瞬間のその「場」を美しく彩ることで、その刹那の「一期一会」を意義深いものにすることに心を傾けていたということが、少し理解できるような気がする。


狂言「真奪」(大蔵流

立花の会のために、立花の中心に据える枝「真」を求めて東山まで行こうとする主(山本則孝師)。ところが若松に杜若、枇杷をあしらった真を持つ通りの者(山本則重師)が通りがかる。その真があまりに見事なので主は太郎冠者(山本泰太郎師)にその真をもらってくるように命じて、自分の太刀を渡す。太郎冠者は通りの者に交渉を試みるが断られるので、結局真を強奪してしまう。ところが、真を抱えて戻ってきた太郎冠者が太刀を持っていないことに気づいた主。主と太郎冠者は太刀を取り返そうとするが…というお話。

多分、太刀を取り返そうと奮闘する主と何をやっても間の悪い太郎冠者というのがおかしみのポイントのような気はするのですが、イマイチ、私はその笑いのツボがつかめず。詞が面白い狂言やパロディ風の狂言なら、その意味さえしっかり伝われば割に誰が演じても面白いけど、こういう、シチュエーションを楽しむものは、かえって演じる方も難しそう…。


能「花軍」(金剛流

金剛流では大正8年に金剛謹之輔(今日のおシテの永謹師の曽祖父に当たる方)が演じて以降、約一世紀ぶりの上演とのこと。

お話は、都に住まいするワキの都人(工藤和哉師)が花の会のための草花を求めて伏見の深草に行くところからはじまる。そこに深井のような面を付けて茶地に金の流水文様に白菊と青と緑の葉を散らした唐織を着けた里女が現れ、立花の会の草花を求めるのであれば、まず女郎花を手折給へと言う。都人が処の名草の白菊ではなく女郎花を進めることを不審に思うと、里女は「もし承引してくださらないのならば夢の中で花軍(はないくさ)をして遺恨を晴らしましょう。今宵の月の時分をお待ちください」というと、失せてしまう。
後場では、「羽衣」の天人風の装束をして、それぞれ天冠と持ち枝に女郎花、杜若、牡丹、白菊、黄色の菊を付けたシテツレたちが現れ、花軍の舞働!そこに、「三輪」の作り物のような茶色の引き回し幕に前方の二箇所の突端に葉の茂る枝を付けた作り物からシテの翁草の精が現れる。翁草の精は子牛尉か朝倉尉系の面に白地に銀で渦を描いた狩衣に緑の大口。翁草の精は、花達に向かって、「たがいの軍をやめつべし」というと中ノ舞を舞う。無事、花々の和睦が相成って皆々(都人のことなどすっかり忘れ)夜明けと共に消えていったのでした。

とゆーわけで、ドラマ的には深い意味は一切無し、見た目が華やかで、かつ、謡いもなかなかメロディアスで聴いてて気分が良いお能でした(特に工藤和哉師の謡がもう一度聴きたいくらい素敵でした)。切能っぽく、何番か観た最後にこれですっきり終わりにしたいという感じかな。

このお能にはいくつも花が出てくる。それらは歌やお能に頻出する花ばかりで当然沢山のイメージを背負っている。なのにこのお能ではそれらのイメージを敢えて使わずに、殺してしまっている。何故このようなお能が出来たのかなと思っていたのですが、戦国時代、何かとこじつけの口実で戦の火蓋が切られたことを思えば、自衛のために、こういった極力アナロジーを排した曲というのも時には必要だったのかも、等と妄想しました。