国立能楽堂 狂言の会

狂言の会  魚説経 通円 素袍落
午後6時30分(午後8時30分終演予定)
狂言 魚説経(うおぜっきょう) 茂山七五三(大蔵流
狂言 通円(つうえん) 佐藤友彦(和泉流
狂言 素袍落(すおうおとし) 山本東次郎大蔵流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2011/319.html

都合により途中から拝見しました。

狂言 通円(つうえん) 佐藤友彦(和泉流

お能の「頼政」のパロディで、宇治橋のほとりの茶屋、通円を題材とした能がかりの狂言。以前、野村萬斎師の狂言小舞で観てすごく面白かったので、それ以来、ずっと観てみたかった。

最初旅僧(井上靖浩師)が出てきて次第を謡うと、宇治橋のたもとで茶の湯が手向けられている。不思議に思い、所の者(佐藤融師)に尋ねると、この場所は頼政の家臣であった通円という茶屋坊主の果てた跡であるとう。

旅僧が通円が出てくるのを待っていると、頭巾を被って小尉風の面をし、左手に白い井戸茶碗、右手に柄杓を持った通円(佐藤友彦師)が橋掛リに現れる。シテが茶屋の主人って、なんだかものすごく新鮮。考えてみると、狂言には割に色んな職業の人々が満遍なく出てくるのに、お能に出てくる人って、ものすごく職業が限られている気がする。大体、漁業とか狩猟とか草刈のような一次産業に従事しているか、神社仏閣のお掃除をしている人とかが多い。あとは、武士とか貴族とか。商業に従事している人は観たことない気がするなあ。

通円は、宇治橋の供養の折、三百人の人に向けて茶を点てた時のことを、舞台中央で床几に腰掛けて仕方話で語る。茶を点てる所作をするとき、まず右手に持った柄杓の柄の部分を茶杓に見立てて左手の茶碗に抹茶を入れる所作をして、柄杓を再度持ち換えて茶碗に湯を入れる仕草をする。おー、柄杓の柄を茶杓に見立てるとは頭いい、と思いつつも、茶筅で茶を点てるところはどうするのかと思ったら、懐から茶筅が出てきて、無事、茶を点てることができ、通円は三百人の人々に次々とお茶を差し出したのでした。

最後、とうとう茶碗も柄杓も打ち割れて、もはやこれまでと思った通円は、帯に挟んでいた団扇を背中側からとりあげ、脱ぎ下げになって茶渋色の団扇を敷いて座する。通円は、辞世の句(?)「埋み火のもへ立つ事もなければ 湯のなき時は、泡も立てられず」を詠い、回向を頼むと、草の陰に消えていってしまうのでした。

自害するとき、団扇が出てくるのが、なんだか興味深い。お能の「頼政」では扇を打ち敷くことになっているが、「通円」では団扇に変わっている。前に萬斎師で「通円」の小舞を観たときは、漠然と「茶屋坊主で庶民だから団扇なのかな?」と思っていたけれども、考えてみると、お茶では扇子を使うし、団扇は庶民が使っていただけでなく貴族が使っていたものも伝世しているくらいだから、あながち「庶民だから団扇」とも言えなさそう。あるいは、扇子は儀式的や儀礼的な用途で遣われることが多いので、団扇の日常使いな感じが狂言に合ってるっていうことなのかな?ところで、お能の「頼政」で自害するときに扇を敷き座を組むというのは、中世までにできた伝承だという(『平家物語』の「宮御最期」の頼政の自害の場面には扇に関する記述はない)。これは、『平家物語』の成立以降(一番遡って延慶本の成立した1240年頃以降)、「頼政」のお能が成立するまでの間(少なくとも「頼政」について記載がある『申楽談儀』成立(1430年)以前?)に、武士の自害というものに対して儀式性というのが強く意識されるようになり、源氏として反旗を翻した頼政を称える人々が、頼政は自害する時、「扇を打ち敷いた」という伝説を作ったのかも(以上、単なる妄想です)。


狂言 素袍落(すおうおとし) 山本東次郎大蔵流

急に明日に、伊勢詣に行こうと思い立った主人(山本泰太郎師)は、以前から伯父(山本則俊師)と伊勢詣をする約束をしていたため、太郎冠者(山本東次郎師)を伯父にそのことを告げに行くよう、命じる。太郎冠者が明日の出立では伯父も準備が出来ないのではと指摘すると、主人は以前から伊勢詣を一緒にしようと言っていた伯父に対する「つけとどけ」(一応の形式的義理を果たす)であるから問題ないといい、また、太郎冠者を供として連れて行くと知ると何事に付けても気を回す伯父は餞別をくれるだろうから、供は決まっていないというように、と太郎冠者に釘をさす。太郎冠者が伯父のところに行くと、伯父はその察しの良さで太郎冠者が供として同行することを言い当て、遠来のお酒を振舞う。さらに伯父は素袍を餞別に渡し、伊勢ではこの素袍を着て私分までお参りしてくれと太郎冠者に頼み、太郎冠者は酔っ払いながら上機嫌で帰路につく。そこにあまりに帰りの遅い太郎冠者にしびれを切らして迎えに来た主人は、酔っ払って餞別の素袍まで持っている太郎冠者を見てあることを思いつく…というお話。

東次郎師の演じる太郎冠者は、ちょっと強情っぱりで怒りん坊な太郎冠者で、その欠点のある性格が笑いを誘う。酔っ払った太郎冠者は気の利く伯父を相手に、自分の主人に対する愚痴をこぼすが、その太郎冠者が、ぐだぐだに正体なく酔っ払っている様子や素袍を主人に隠されて不機嫌に対応する様子をみていると、どっちもどっちというか、この太郎冠者にして、あの主人ありだなあという感じがして、微笑ましい。

そういえば、伯父が自分の身代わりという名目で素袍を渡すが、これは「形見の衣」という考えが、この狂言が出来た頃は、歌詞(うたことば)のみでなくまだ広く人々の間で生きていたということなんだろうか。