世田谷美術館 白洲正子 神と仏、自然への祈り

白洲正子 神と仏、自然への祈り
生誕100年特別展 世田谷美術館開館25周年記念
2011年3月19日〜5月8日 1階展示室
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/


白洲正子の著作に出てくるものを集めて展示した展覧会。白洲正子の著述の世界をモノの側からみることが出来る。改めて、白洲正子の世界には、お能や室町・安土桃山時代の好みが通底しているという気がした。


どれもこれも魅力的だったけど、一番印象的だったのは、「焼損仏像残闕(千手観音像トルソー)」(奈良時代 8世紀奈良・松尾寺)。トルソーとは、頭、手、足を除いた胴体の部分のこと。もともとは千手観音だったものが、いつの時代にか、火に焼かれてしまい、胴体のみになったものが松尾寺で見つかったのだとか。このトルソーは、形でいえば、頭部の無いミロのビーナスのように、腰のところで少し波打った形をしており、色合いでいえば、アフリカ美術の彫刻のように、下からの炎に焼かれて、上の方の茶から焦げ茶、黒というグラデーションになっている。細身で優雅なフォルムから想像するに、焼ける前の千手観音は、百済観音のような姿だったのかもしれない。

奈良時代仏教美術記紀等の記述、平安時代の『源氏物語』や『枕草子』を読むと、仏教とは、まばゆいばかりの金色の仏像や仏具、金泥や銀泥、大和絵で装飾された経典、荘厳華麗な声明や法会等で象徴されるものであり、人々は仏教を極楽浄土に導いてくれるものと考えていたように思える。ところが、中世になると、一転して、例えば仏教の影響を色濃く受けたお能では、熱心に地獄が表現される。お能の典型的なストーリーといえば、劇の後半で、シテである何某の霊が現世での行いを悔いると共に、地獄の紅蓮の炎に焼かれ悶え苦しみ、「助けて給べ」とワキの僧に回向を頼み、草葉の陰に消えていく、というものだ。

この千手観音は、生まれた当時は、奈良時代の好みに合わせ、若々しく繊細優雅な姿をしていたかもしれない。しかし、自分の千の手で衆生を救うだけでは不十分と考えたのだろうか、衆生の身代わりになって、自ら地獄の業火の中に身を投じたのだ。本来、地獄の業火に焼かれるのは人間であるのに、観音自らが焼かれて人間の身代わりになり、今もこうやって焼け残ったトルソーとして衆生のために祈っている。そう思いたくなるほど、その姿には強く語りかけるものがあり、心動かされた。


書き出したらきりがないけれども、他にも興味深かったのが、舞楽面 陵王」(室町時代奈良・春日大社舞楽の「陵王」のストーリーは、美しい陵王が戦で先頭に立つとみんな見惚れて戦いにならないため、あのように龍の顔のような恐ろしい面をして無事、戦いに勝ちましたとさ、というものらしい。知らなかった。とゆーか、雅楽インストルメンタルで詞章は付いてないし、妄想派の私も、さすがにあのラジオ体操みたいな動きからは、こんなストーリーがあるとは想像しきれなかった。まったくもって、今流行の「想定外」でした。

それから、「三輪山絵図」(室町時代 16世紀奈良・大神神社。いつか三輪明神に行ってみたいので、じっくり見てみたが、よくよく見ると、あちらこちらに杉の木が描かれていて、予想を裏切られた。杉の木がご神木というのは、お能の『三輪』にも出てくるけど、私は2本ぐらいしかないかと思った。なぜかというと、まず、美術や工芸品で「三輪」を表す場合は、だいたい杉の木が二本描かれているし、お能の三輪でも、三輪明神が顕現するまで身を潜めている作り物の上には、杉の小枝が二本、立っているから。この「三輪山絵図」によれば、「二本の杉」というのがあるにはあるけど、それは参道の中程にあるのだ。それに拝殿のようなものがあるのも意外だなあ。お能の「三輪」の間狂言では、所の者が、三輪明神は「生類畜生も杉のしるしを目印として三輪明神に参拝しに来るのだから、鳥居も社も必要ない」と言ったと語っていたのに。やっぱり人間というのは、つい拝殿とか作ってしまうらしい。しかも、この絵は室町時代のものだから、お能の「三輪」が出来た頃も実は大体似たような感じだったんだろうなあ。うーむ、やはり見に行かなくては。どちらにしても、杉の木立に囲まれている三輪明神が、スギ花粉症を発症していないことを切にお祈り申し上げます。


なお、写真は歩道に植えられた皐月と春紫苑(多分)です。春紫苑や姫女苑は、一名、「びんぼう草」とも呼ばれ、顧みられることのないお花ですが、この春紫苑はあまりにフォロジェニックだったので、思わず写真をとってしまいました(風に揺れてピンぼけですが)。日本美術や古典を好きになると、なよなよとした雑草さえも好ましく感じられるのが良いところのひとつだ。道端の雑草を見てても汚らしいと思うどころか、「蓬生(よもぎう)…」とか、「八重葎(やえむぐら)…」とか、「仏の座…」とか、「露草…」とか、「酢漿(かたばみ)…」とか、心の中でつぶやいてうっとりすることができる。庭の雑草むしりの煩わしさに辟易されている方がいらっしゃいましたら、逆転の発想で、このように雑草を見てうっとりすれば、むしろ雑草の生える庭こそ美しいと感じ、「雑草よ、もっと生えてくれ」という気分になることが可能かと思われます。ただ、他人に理解してもらうという点においてはほとんど絶望的、というところが難点ですが。