国立能楽堂普及公園 文立 嵐山

解説・能楽あんない 花の山の力神 馬場あき子(歌人
狂言 文山立(ふみやまだち) 松本薫大蔵流
能   嵐山(あらしやま) 佐々木宗生(喜多流

http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1095.html

解説・能楽あんない 花の山の力神 馬場あき子(歌人

おもしろかったのは、脇能での舞事についての解説。誰かを助ける神様のお能では[神楽](だったかな?)があり、また、[舞働]のあるお能では、神の力を誇示しているのだという。

この「嵐山」には、後ツレの勝手明神と木守明神の相舞による[中ノ舞]はあるのだけど、肝心の後シテである蔵王権現の舞事は無い。これについて、馬場さんは、蔵王権現は「舞働を入れて力を誇示するような必要があるほど、下位の権現ではないから」とおっしゃっていて、大変興味深く感じた。

蔵王権現は、そもそも役小角が吉野で修行中に示現したもので、それほど重要視されているということは、よく分かっていなかった。それに、役小角の存在についても。

役小角といえば、私にとっては、いろんなお寺の開基になっている人とか、空を飛んだ人とか、葛城山に住んでいて、吉野と葛城を結ぶ岩橋を作れと葛城の神に命令した人とか、そういう断片的なイメージしかない。けれども、考えてみれば、修験道を開いた人であるわけで、役小角その人が蔵王権現を感得したということが、そのまま、蔵王権現の大きさを物語っているのかもしれない。

それから、お能に出てくる神様や仏の位置づけというものについても、考えさせられる。馬場さんのお話によれば、お能で舞事をする神様は比較的、下位の神様だという。今回の「嵐山」では、蔵王権現は出てくるが舞事は無い。

他のお能では、例えば「石橋」では、獅子は出てくるが、肝心の文殊菩薩は出てこない。「盛久」では、由比ヶ浜で首を着られる前日に盛久の夢の中に彼が厚く信仰していた清水寺観音菩薩が現れるが、これも居グセで地謡がそう謡うのみで、観音菩薩が舞台上に現れるということはない。

しかし絶対に高級な仏や神は現れないかというと、そうとばかりも限らない気がする。たとえば、「江口」では、遊女の江口が、最後に普賢菩薩となって白象に乗って空に消えて行く。「当麻」では、阿弥陀如来の来迎を熱心に望み念仏に明け暮れていた中将姫が、化尼に「これは如何なる人ならん」と問うと、「誰とはなどや愚かなり。呼べばこそ来たりたれ」という。化尼実は阿弥陀如来なのだ。私の知っている範囲で考えてみると、高位の仏そのものが舞台に出てくることはなく、出てくる時は、化身となって現れるというところだろうか。

話が蔵王権現から外れたついでに、さらに話を広げてみると、後の時代の文楽や歌舞伎では、念仏の場面はあっても、仏や神そのものがほとんど出てこないように思う。これは、その直前の時代の御伽草子古浄瑠璃に、仏教説話が多いのと対照的で、とても興味深い。

例えば、古浄瑠璃御伽草子と江戸時代の浄瑠璃で共通する話といえば、俊徳丸や中将姫の話がある。御伽草子古浄瑠璃の俊徳丸の話は、清水寺の観音様のご加護で、最後は俊徳丸も目が見えるようになる。一方の、文楽・歌舞伎の『摂州合邦辻』は、俊徳丸という登場人物とその設定の一部を借りているだけで、ほとんど別の話になっている。中将姫の話も、御伽草子古浄瑠璃では、化尼と化女は阿弥陀如来と観音とされているが、『ひばり山姫捨松』の「中将姫雪責の段」では、浮舟と桐の谷という名前の腰元に置き換えられてしまっているようで、特に神仏のご加護は大きな役割を果たしていない。

それでは、江戸時代に入ると、人々はその前の時代のように神仏を信心することは無くなった…と言えるかというと、そうとは言えないとは思う。寺社縁起の中には江戸時代に完成したものも多いし、念仏踊りや寺社参詣に人々の間で流行ったのも江戸時代のことだ。けれども、物語の中での人々と神仏の関係性ということになると、やはり、江戸時代には、それまでの時代と何かが変わってしまったようだ。念仏や参詣はするものの、熱心に信心すれば神仏のご加護があったり、示現して救われるという話に、観ている人々がリアリティを感じられなくなって、そういった結末にカタルシスを感じられなくなったのかもしれない。

一方、文楽の中で、観音様がそのまま出てくるものといえば、『壺坂観音霊験記』だ。こちらは観音様のご加護で、自殺しようとした主人公の沢市が助けられるだけでなく、盲目だった目が見えるようになる。『壺坂霊験記』は、初演が明治十二年(1879)だから、この頃には、また、人々のこういった話に対する感じ方が、江戸時代とは大分変わってしまったということなのだろう。この話を観た当時の人々が、そのまま神仏のご加護を信じたというよりは、ひとつの話として、客観的に捉えることが出来るのようになったのではないだろうか。


能   嵐山(あらしやま) 佐々木宗生(喜多流

馬場さんによれば、佐々木宗生師のお家は、中尊寺桜本坊なのだとか。中尊寺お能の公演も主催されたりするという。そういえば、中尊寺喜多流という話だったけれども、本当に、喜多流のプロの能楽師の方がいらっしゃるのだ。さらに、中尊寺桜本坊のご本尊は蔵王権現で、吉野山にも桜本坊があるのだとか。というわけで、有難さのいや増す「嵐山」なのでした。

お能の始まる前に、後見によって桜の木が二本据え付けられた一畳台が正前に置かれる。

前場は、都から十里の範囲内にと留まらなければならない帝に代わって、嵐山の桜を見に行った臣下が、花守とその妻の姥に出会う。二人は、この嵐山の山桜は吉野の山の千本の花の種を取って、植え置いたものだという。二人は嵐山とその桜の美しさを賞賛した後、この山の桜が皆神木なのは、吉野の木守明神、勝手明神が影向するからだという。そして、二人は実は、その木守明神と勝手明神なのだというと、立ち上る雲に乗って、南の方(=吉野の方)に行ってしまう。

[来序]の囃子の後、[狂言来序]となって、末社の神が出てきて、前場で話された嵐山の桜の由来を語る。

後場では、[下リ端]で、木守明神と勝手明神が現れる。木守明神は女神で、なんと「連面」という銘の面をしている(小学館の古典文学全集には「増」とあり、その系統の面)。ツレ専用面?それから勝手明神の方は邯鄲男の面。勝手明神ってネーミングが面白い。私の中で最もインパクトのある名前の神様は一言主だったけど、この勝手明神という名前も相当だ。勝手なことをするから勝手明神というのかしらん。昔の人のセンスもなかなか。

そして、木守明神と勝手明神の[中ノ舞]の相舞があり、さらに、蔵王権現が来迎する。蔵王権現は、「大飛出」の面をして、荒ぶる神さながらの荒々しい舞を舞う。それを観ていたら、東博にある国宝の線刻蔵王権現像を思い出した。細密な線刻で描かればこの蔵王権現像もやはり独鈷を持ち荒ぶる様子が描かれているものの、私は今まで、あの像を観ても、まるでイコンや静物画を見るように観ていた。しかし、目の前で演じられている蔵王権現を観ているうちに、昔の人が心の中に見ていたものが少し分かるような気がしてきた。きっと、昔の人達の心は今の私よりもずっと想像力にあふれていて、蔵王権現をもっとリアルに感じたであろうし、あの線刻の蔵王権現像も、線刻した仏師にとっては、そういった荒々しく躍動する蔵王権現の一瞬を切り取ったものだったのだろう。

桜の花にちなんだ物語をまた一つ知ることができて、楽しい土曜日の午後でした。