国立能楽堂 特別企画公演 阿古屋松

◎―観世文庫創立二十周年記念―世阿弥自筆本による能
解説   松岡心平(東京大学教授)
復曲能   阿古屋松(あこやのまつ)  観世清和
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/2029.html

世阿弥自筆の能本による、「阿古屋松」の復曲初演。

金曜日の初演に続く、2回目の日曜日の回を観ることができました。ここ数週間、体調が絶不調で、観に行けないかと思っけど、何とか観ることが出来て良かった。

お能自体は、阿古屋松を巡って様々な和歌や歌枕、歌も物語、伝説等から想起される、あふれんばかりのイメージがちりばめられたお話。当時の芸術は、和歌を基盤としたイメージ世界を重視していたことを、改めて認識させられました。しかし、その分、劇としては統一感に欠ける印象があり、そのあたりが、多く上演される機会の無かった一因なのかなあと想像しました。

世阿弥という人は世にも稀な天才だというのは疑いない。けれど、その彼にも、前回観た「蟻通」のような素朴な曲や、今回の「阿古屋」のように修辞は見事だけれども主題や劇の構造に整理の余地があるような曲があるいうのは、面白い。そういう作品を経て、「西行桜」や「井筒」のような、高度に洗練された曲が生まれることになっただろうか。


解説   松岡心平(東京大学教授)

松岡先生によれば、世阿弥自筆の能本は、現在11種あるという。能本というのは、謡本と異なり、ト書き等がある上演台本のようなものとのこと。うち2種は、世阿弥の自筆の能本を臨書したもの等なのだそう。さらに、11種中4種(「布留」、「難波梅」、「松浦佐用姫」および「阿古屋松」)が観世家伝来(=現観世文庫蔵)の能本だそうで、昨年から4回シリーズで復曲を行っているのだという。

松岡先生は、この「阿古屋松」は、ほとんど公の上演記録がないとおっしゃっていた。江戸時代に観世元章が小書を書いたりしているそうなので、個人の邸宅等で舞われることはあったと思われ、全く上演されなかったということでは無いらしいが、とにかく、作られてから600年以上経て、公式に上演される訳で、先生も感慨深げだった。

ほかに、世阿弥の『申楽談儀』に、

西行、阿古屋松、おほかた似たる能なり。後の世、かかる能書く者やあるまじきと覚えて、この二番は書き置くなり

と、あることに触れられて、ここでいう「西行」とは、「西行桜」であるという説と「実方」であるという線の二つの説があるということを説明されていた。ただし、現在は「西行桜」説が大勢を占めていて、松岡先生もそう思われているとのこと。「実方」は、そういえば、まだ能を観始めて数ヶ月の2007年に、同じく国立能楽堂で、復曲公演を観た。二日間の公演のうち、今の梅若玄祥師と大槻文蔵師のお二人が交代でシテと地謡頭を勤められていた(私が観たのは、文蔵師がシテの回)。しかし、どんなお能だったかというと、記憶は全く心許ない。賀茂の臨時祭の時に舞を舞って、御手洗川に自分の姿を写して自分に見とれた様子を再現したという内容だったことはうろ覚えで覚えている。「実方」は西行がワキなのだそうだ。とすると、ちょうど、「阿古屋松」と「実方」はシテとワキが逆転していて、最後は御手洗川に自分の様子を写したという故事が眼目となっている。そのあたりが、上記の『申楽談儀』の引用部分の「『西行』とは『実方』」説が出てくる理由なのだろう。


復曲能   阿古屋松(あこやのまつ)  観世清和

[次第]でワキである陸奥国司、藤原実方(森常好師)とワキツレの従者が橋掛リを舞台方向に歩いて来る。

実方は、名乗リをするが、そのとき、「朱雀院に仕え奉る、中将実方とはわがことなり」という。実方は一条天皇の命で陸奥に赴任しており、時代的には一条院か花山院で、本来、朱雀天皇とは時代が異なる。松岡先生によれば、世阿弥はあまり時代考証はしていないとのこと。ただ、一条院といえば、『枕草子』の清少納言の仕えていた定子皇后の夫であり、かつ、『枕草子』には一条院も実方も印象的な形で出てくるので、当然『枕草子』も読んでいたであろう世阿弥(および、このお能を観る機会のあった人々)にとっては、取り違えにくいのではないか、という気もする。あるいは、この「朱雀院」という設定は、『源氏物語』で源氏が須磨に行くことになった時の帝、朱雀帝を想起させ、『源氏物語』の世界を響かせているのかも。詞章では、実方は自分が陸奥に下った理由として「さることありて」としか言っていないが、『源氏物語』を響かせることにより、実方が左遷されて陸奥に行ったことを暗示しているのかな、などと妄想してしまった。

時期は長月。実方は、紅葉を求めてあたりの山々を巡り眺めようと言う。

実方等は、「陸奥の安積(あさか)の沼の花がつみ、かつ見る人やともならん、かつ見る人や友ならん」と詠いながら、山々を巡っていく。

「花かづみ」は、実方が奥州に赴いた時、陸奥には菖蒲の花が無いため、端午の節句に花かつみを軒に葺いて新風俗にしたという伝説があるため、ここに引かれているのだろう(『無名抄』)。また「安積の沼の花がつみ」の詞は、『古今和歌集』巻第十四の恋歌四「陸奥の安積の沼のはながつみかつ見る人に恋ひやわたらむ」(677、よみ人知らず)という歌がベースとなっているのだと思う。松岡先生は、パンフレットの解説に「(後シテの)塩竈明神の実方への友愛こそは、この曲を貫くテーマ」と書いている。世阿弥はここで古今和歌集の歌の下句の語句を「恋ひやわたらむ」から「友ならん」へ変換し、「花かづみを一緒に見る機会のあったその人は、友となるでしょう」としているのは、この曲のテーマを暗示させるための変更なのかもしれない。

実方は、遠くに山の老人を見つけて、従者に、老人に尋ねたいことがあるので、連れて来るように言う。

[一声]で、幕があがると、前シテの木樵の老人(観世清和師)が現れる。三光尉の面に、水衣、熨斗目の着付という装束。右手に杖をつき、左肩に紅葉したもみじの散らされた柴を背負いながら、ゆったりと謡う。ここのところは、世阿弥が田楽新座の喜阿弥の「炭焼の能」を転用しているとのこと。ただ、その実態は分からないらしい。この前観た「嵐山」にも喜阿弥の謡を取り入れているということだったことも考え合わせると、世阿弥が喜阿弥をリスペクトしていたことは分かるものの、私のイメージする田楽っぽさもないし、果たして、世阿弥が喜阿弥を取り入れることで、どんなことをしたかったのかは、私には謎。

木樵の老人は、実方達の姿を見て、「私と同じように山に入るなら、挿頭(かざし)とする木を切れ」というと、秋の山の風景や木樵の生活を折り込んだ詞を謡う。その中に引かれている、「奥山の岩垣もみぢ散りぬべし、照る日の光見ることなくて」は、『古今和歌集』巻五、秋歌下の歌(282)。「古りにし里も花咲くとこそ(ふる)き詠(えい)にもあるなるもの」とあるのは、『古今和歌集』巻十七の「日光(ひのひかり) 藪し別ねば石上古りにし里(さと)に花も咲きけり」(869)という歌。前者の歌は宮廷に長く出仕しないで山里に引き篭っていた人の歌で、後者は、石上波松という人が宮殿に出仕しないでいたところ、急に官職を賜ったという歌。いにしえの歌には、官職を離れて山に篭った人の歌もあれば、急に官職を賜った人の歌もあることだ、と左遷された実方への慰めの言葉なのかもしれない。ここは、陸奥の山、実方の心の奥はいかばかりだろう(「ここは名だに陸奥山の、心の奥も、いかならん」)、という。

木樵の老人が舞台まで来ると、実方は、阿古屋の松の在所を尋ねる。老人が、「知らず候」と答えると、実方は、「卑しい者だから、陸奥の有名な歌枕のことも知らないのか」と、高慢な物言いをする。

老人は一度は、「確かに私は木樵なので阿古屋などという名木は知らない。」と腹立ち気味に言い、立ち去ろうとする。しかし、そのまま帰るのも惜しかったのか、「思い出して候」というと、昔は陸奥、今は出羽にあると説明する。というのも、昔は日本は三十三箇国に分かれていたので、その当時は陸奥だったが、六十六箇国に分かれて後は、出羽国となったからだという。このあたりは、平家物語の阿古屋松のエピソードにもある有名な話だ。そして、老人は、「下々の人間だからといって、そのように見下した物言いをすべきではありません」という。

実方は、「陸奥というだけあって、心の奥のものの本質まで知っている人だと今、悟った。もっと物語り申せ、阿古屋の松に案内してくれ」という。

すると、老人は、「御意とあらば、阿古屋の松までご案内いたしましょう」というと、阿古屋の松のある所に連れていく。

実方が阿古屋の松を見て感じ入っていると、老人は、「千賀の塩竈の明神とは、この翁よ」と告げると、煙立つ塩竈の浦に行ってしまい、中入リとなる。


狂言では所の者(山本東次郎師)が、実方から阿古屋松の由来を問われて、次のように語る。

昔、陸奥の国、信夫の庄の藤原豊充という人が、容顔美麗な息女を持っていた。その姫の名前は阿古屋姫といい、管弦を良くし、宵々、音曲を奏で、豊充の心を慰めていた。ある日のこと、阿古屋姫の琴の音に誘われるように、外から笛の音がする。笛の主は、美しい若者で、名前を左衛門太郎という。彼はそれから頻繁に現れるようになり、最初は阿古屋姫と左衛門太郎は、管弦の友として親しくしていたが、後に夫婦となる。

ところが、ある日、左衛門太郎は、阿古屋姫に、実は自分は人間にはあらずと、告白する。本当は、最上川の平清水にある老松なのだという。阿古屋姫と夫婦になりたいが為に人間の姿となったが、命運が尽き、今日で死んでしまうのだというと、かき消すように失せてしまう。

阿古屋姫は事の容体を知りたいと思っていたところ、名取川に氾濫があったことを知る。この大洪水のために、橋が落ちてしまった。橋を架け直す必要があるが、名取川は大河のため、両岸にかけて渡せる大木が要る。しかし、そのような大木を見つけることが出来ず、人々は難儀する。そこで、占師を呼び、大木の在処を占わせたところ、最上平清水にあるという占いが出た。

人々は大木を見つけると、その大木を動かそうとしたが、びくともしない。詮方無しに村の鎮守に尋ねると、阿古屋姫を召せという。そこで人々は阿古屋姫を大木のところに連れていく。阿古屋姫が大木にささやくと、めでたく大木は動かすことが出来るようになり、切り倒すことが出来た。その老松の後に幼木を植え、阿古屋松と名付けたという。

ここまで聴いて、静かに驚いてしまった。歌舞伎や文楽の「阿古屋琴責」と「三十三間堂棟木由来」を思い出させるような話ではないか。きっと観客のうち、歌舞伎や文楽も観る何割かの人も同じことを思っただろう。

特に「阿古屋琴責」に関しては、浄瑠璃と似たような場面が幸若舞の読本である『舞の本』の「景清」にあるので、私の想像では、それをベースにした上に、きっと初演当時に三味線方でお琴の得意な人がいて、その人の技能を有効活用するような形で書いたのかな、などと思っていた。しかし、この間狂言の中には、阿古屋姫という息女はお琴の名人ということになっており、そうなると、阿古屋琴責の遊君阿古屋の設定は、この阿古屋姫から引いているということなのかもしれない。

ただ、そうなると、幸若舞に出てくる景清の妻、阿古屋という女性の人物造形が何故、あのようになったのか、とても興味深く思えてくる。幸若舞の「景清」の中で、阿古屋は、浄瑠璃とは逆で、畠山重忠のところに自ら出向いて景清の行方を明かすのだ。というのも、彼女は、逃亡する景清がいずれにしても源氏方に捕まることになるだろうと判断したからで、そうであればこの状況を利用して、子供達を守り、立身出世の道筋を作ってやろうとするのだ。今の時代の感覚からすると景清という夫に対してひどいことをするな、と思ってしまうが、「子を思う故に狂人にもなる母」、「悪妻」というのは、中世の物語の中では好まれるお話のパターンであるようなので、中世の人には、それほど違和感はなかったのかも、などと思っていた。

しかし、阿古屋松の伝説に出てくる阿古屋姫の父親が藤原鎌足の曾孫で藤原武智麻呂の息子、藤原豊充となっていることや、阿古屋松のある萬松寺は、行基の開山以前に阿古屋姫が開基となっているということから考えると、この伝説が作られたのは大変古い時代にさかのぼることができる可能性があるのかもしれない。もし、幸若舞の「景清」が成立した当時にすでに阿古屋松の伝説が流布していたとすれば、幸若舞の「景清」は、阿古屋という名からの「夫思いの妻のはず」という観客の期待を裏切り、「実ハ」悪妻という、どんでん返しの話にすることで、観客を驚かすことを狙った演出なのかもしれない。そして、文楽の阿古屋琴責では、江戸時代の人々には、幸若舞の阿古屋のようなヒロインは好まれないことや、幸若舞をベースとした景清の物語を知る観客に対する更なる「どんでん返し」で観客に強い感銘を与えようという意図から、阿古屋姫の物語を採用したりしたのかもしれない。

なお、当日にいただいたパンフレットを見ると、阿古屋松のある萬松寺の説明の下に、阿古屋姫のお墓と共に、藤原実方のお墓と中将姫のお墓が一カ所にある写真があった。中将姫のお墓がここにあるということが、非常に興味深い(阿古屋姫は藤原豊充ではなく藤原豊成の娘で中将姫の妹という伝説もある)。中将姫の伝説は、様々な形で流布されるが、ひとつの有力な流布の形として、中古から中世に活躍した唱導師が全国に広めていったルートがあると考えられている。この萬松寺に中将姫のお墓があるということは、阿古屋姫の伝説にも唱導師が関係しているという証なのかもしれない。

とはいえ、この阿古屋姫の伝説は恐ろしく様々なバリエーションがあり、また記録として残っているのは江戸時代以降のようだ(そのため、世阿弥が「阿古屋松」を書いた時、間狂言が今回と同様の内容であった可能性は、かなり低いのではないかと思われる)。阿古屋姫の伝説は、まるで遠い昔の伝説のかけらを万華鏡で眺めているような、とても魅力的な伝説だ。


さて、話を間狂言に戻すと、所の者から阿古屋松に案内したのは塩竈明神ではないか、と言われた実方は、松の根を枕にして野宿し、塩竈明神がもう一度出てくるのを待つことにして、待謡を謡い、後場となる。

太鼓入りの[出端]で、後シテが橋掛リに出てくる。腰巻尉という面に、松の小枝を挿頭にした初冠、浅葱地に紫の丸文の狩衣に、紫地に白の丸文がある指貫姿。橋掛リで『平家物語』にも引かれる「陸奥の、阿古屋の松に木隠れて、出づべき月の出でやらぬかな」(『平家物語』では「出もやらぬか」)という阿古屋松を詠った代表的な歌を謡う。付け加えて、塩竈明神は、「さしも隔てし都人、げに珍しき友なるぞや」と謡う。実方を友と呼び、交流したいというのだ。

実方が「いかなる人にてましますぞ」と尋ねると、塩竈明神は、自分はあの陸奥から阿古屋松のところまで案内した翁であることを告白し、「夢ばし覚まし給ふなよ」と言う。この台詞にあるシチュエーションこそが、世阿弥が「西行と大方似たる」というところなのだろう。「西行桜」の中の桜の精もやはり西行の夢の中に現れ、西行が夢から覚めそうになると、「待てしばし、夜はまだ深きぞ。」と、名残を惜しむ。

それから、シテは、<クリ><サシ><クセ>で、松の葉が四季を通じて緑をなし、老松にはなってしまった今でもその青さを保っていること、秦の始皇帝が松の木の下で雨宿りしたことから松に爵位(五大夫)を授けた故事までも引いて、松の素晴らしさを称える。

さらに、松に関する歌枕を次々と挙げて、阿古屋の松こそ最上の歌枕であり、都に苞として持ち帰ったらどうか、と語りかける。実方は、藤原行成の冠を叩き落としたところを一乗院に目撃され、その結果、「歌枕見て参れ」と、陸奥国司として陸奥に赴任してきた。「都の苞に誘ひなん」というのは、陸奥守だった橘為仲が、陸奥から陸奥の歌語の「宮城野萩」を長櫃に入れて都に持ち帰り、都の人に持てはやされたという故事(『無名抄』)を思い出させる。

さらに塩竈明神は、[移り舞]で、実方が賀茂神社の臨時の祭で舞を舞った時、御手洗川に自分の華やかな盛りの姿を写した様子を再現してみせ、[真ノ序之舞]となる。[真ノ序之舞]は、白髪の明神の舞でありながら、「小塩」の在原業平のような、艶やかで優雅な舞で、実方と塩竈明神が融合してしまったかのような舞なのだった。また、この舞は、疲れた様子で一度休息したり、「道成寺」の乱拍子のような箇所があったりと、変化に富んだ舞だった。


そうこうしている内に、有明がたとなる。塩竈明神は橋掛リに向かい、一ノ松辺りで名残惜しそうに、一度、実方を振り向くと、「弱々と見えしまま、阿古屋の松の名にし負ふ、木隠れて、失せにけり跡(あと)木隠れて失せにけり」で、幕の中に消えて行くのだった。