出光美術館 祭 MATSURI

出光美術館 日本の美・発見VII 祭 MATSURI
―遊楽・祭礼・名所―
開催期間:2012年6月16日(土)〜7月22日(日)
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/index.html

お昼まで用事があったので、午後は楽しいことをしようと思い、久々に出光美術館に行ってみた。『祭 MATSURI ―遊楽・名所・祭礼―』というタイトルで、京と江戸の名所絵図や京の祇園祭、浅草の三社祭、歌舞伎絵図等々の展示。室町時代から江戸時代までの祭や芸能の絵をいくつも見ると、時代、時代の芸能の発展の歴史も知ることができ、非常に興味深い展示だった。

そのなかでも、私にとって特に興味深かったのは、謎の僧形の芸能者達と三味線の影響力だ。

「謎の僧形の芸能者」などと言っても、頭を丸めているだけで、服装は着流姿なので、本格的な僧形というわけではない。彼らは、どこにいるかというと、たとえば、遊郭でお大尽といった風体の男性を取り囲む遊女等と共に座敷にいたり、幔幕で仕切られた花見の宴席で、地面に敷物を敷いて酒や肴を食しながら上機嫌の人々の傍らにいたり、同じく野外で人々が輪になって風流踊りのようなものを踊っている所の近くに居る。共通するのは、ある時は三味線を弾きながら(それ以外の楽器はとりあえず見たことはないと思う)、ある時は三味線無しで、声を張り上げて、何かを唄っているか語っているかしているようだ。

今までは、その手の人を様々な絵の中に見つけても、漠然と、「江戸時代だって不幸にして年と共に髪が全て無くなってしまう人もいるだろう」というくらいにしか思っていなかった。しかし、これだけ多くの、禿上がった似たような人々を見つけると、もっと別の可能性を考えなければならない。

すくなくとも、彼らが存在する「場」や、彼らがそこで何をしているかと考えると、芸能者以外には考えられない。ただし、彼らの周りの人々の反応を見ると、語りか唄かわからないが、とにかくそれを聞き流して雰囲気を楽しんでいるか、それに合わせて踊っているかだ。と考えると、どうも、義太夫節やら謡やら平曲のような、複雑な物語や詞章を聞かせる種類の芸能ではないらしい。踊る人がいるということは、変化に富んだ節やリズムが付いた、どちらかといえば、比較的、音楽性の高い曲なのだろう。

となると、僧形の芸能者の正体は、吉原等に出入りしていた、浄瑠璃(一中節、富本節、宮園節等々)に関係する人々なのかなあという気がする。また、何故、僧形なのだろうという点も、ものすごく、気になる。


それからもう一つ、三味線の影響力というものにも驚嘆させられる。もちろん、絵から三味線の音が聞こえてきたりするわけではないけれども(聴けるものなら聴いてみたい)、ある時代以降、画面にあふれる三味線を弾く人々の絵を見ればそう言わざるを得ない。三味線があふれかえる、ある時期までは、歌舞伎であれ、踊りであれ、囃子は小鼓、大鼓、それに、せいぜい笛や太鼓が入るぐらいだ。しかし、三味線が導入される「ある時期」以降は、まるで三味線の無い世界は想像できないと言った風に、何は無くとも伴奏は三味線といった扱いになる。「謎の僧形の芸能者達」は伴奏には三味線を使うし、風流踊りのようなものをしている人達の真ん中で床几に腰掛けている人が奏でる楽器は、例外無く三味線、歌舞伎でも、ある時は舞台上で踊る役者と絡んで、またあるときは、囃子方として演奏を引っ張っているように見える。


1. 洛中名所図扇面貼付屏風(可能宗秀、桃山時代

狩野永徳の弟、宗秀(そうしゅう)の印が使用されているらしい。パースが恐ろしく狂っていて、兄の永徳の絵を思い起こすと、痛々しい。狩野永徳の父松栄もそういえば、線の細い絵を描く人で、何となく、祖父の元信の才能を引き継いだ永徳と、父の才能を引き継いでしまった宗秀という構図が見えて、のっけから悲哀を感じてしまった。しかし、あれだけ偉大な兄を持ち、かつ同業を継がなければならない弟というのも、可哀想な気はする。

2. 月次風俗図扇面(室町時代

春日若宮御祭の様子。観客に頭巾を被った僧が沢山いるが、興福寺の僧なのだとか。この絵の中で、舞台は、一段高くなっている正方形に近い形の板張のシンプルな形をしていて、そこで囃子付きの田楽を披露していると説明には書いてある。舞は、二人の若人が簓(ささら)踊りをしており、舞台の端には四人の太鼓の演奏者と一人の横笛奏者がいる。この太鼓は、直径は見たところ、1mぐらいあるが、高さ(厚み)は大変薄く、演奏者は、自分の前に、縦に、ちょうど自転車の前輪のような形に設置して演奏する。太鼓の皮は、青や赤の美しい彩色が施されている。面白いのは、舞台上のどの人も、市女笠に似た形の笠を被っていること。何故、このような笠を被っているのだろう。

3. 歌舞伎・花鳥図屏風(江戸時代(寛永期))

阿国の踊った「茶屋遊び」という演目を真似ているらしい。若衆歌舞伎の時代だが、まるで女性のような役者が踊っている。舞台は能舞台そのままで、一ノ松、二ノ松、三ノ松までちゃんとある。この時代には既に三味線が使用されていたようだ。また、ちょうど現在の能舞台でいう地謡座の奥に、笹や御幣を持った人々がいて、それが何だったんだろうと、かなり気になる。

4. 阿国歌舞伎図屏風(桃山時代

慶長8年(1603)の北野社での舞台ということが判明しているらしい。舞台は能舞台のようだが、橋掛リの松は無い。囃子もお能の同様、笛と小鼓と大鼓。

8, 祇園祭礼図屏風(桃山時代

山鉾巡行について、自分が何も知らないということに気が付いた。それぞれの山鉾は謂われがありそうで、興味深い。それにしても、この絵の中では、物見遊山の客がほとんど居ないのが印象的。説明には、「昔は祭りというよりは、法会としての性格が強かった」という趣旨のことが書かれていた。どこかで読んだ本には、確か、昔は公家の人々がやっていたのを、それが中止となるということで、町衆が引き継いだということが書いてあった気がする。多分、この時期はすでに町衆の手によるものだったと思うが、これだけ贅を尽くした華やかな行事を、見物客もそれほど居ないのに、どうして、町衆は公家から引き継ごうとしたのだろうと、改めて不思議に思う。

12. 能面 頼政(是閑吉満、桃山時代

能面が2つ、出ていた。ひとつは萬媚で、もうひとつは、この頼政源頼政に関するお能は二つあって、ひとつは、「鵺」で内裏で鵺退治をした時の話。そしてもうひとつは「頼政(らいせい)」。これは以仁王の乱の後、宇治平等院で自害した時のことを頼政が語るというもの。特に「頼政」では、面に「頼政」という専用面を使う。この「頼政」という面は、通常、悪尉に似た、険しい表情をした力強くも恐ろしい老人の顔だ。色も黒光りしている。ところが、今回展示された「頼政」という面は、どちらかというと、壮年から初老にかけての男性の顔で、頬骨が高く肌の色は人間のようだが、厳しい表情をしており、口を開けて何か言わんとしている。金環(瞳の虹彩にあたる部分に金が施されている)なので、生霊ということなのだろう。中将と怪士の間という感じの面だった。「鵺」も「頼政」も世阿弥作と考えられているが、世阿弥の頃は、頼政はこのような姿で舞っていたのだろうか。歌人でもあり、『平家物語』の中でも優雅な立ち振舞が印象的な頼政の性格を考えれば、このような面でもおかしくは無い気はする。

13. 洛中洛外図屏風(江戸時代元和期)

祇園祭礼の図。山鉾巡行の行路が通常と異なることから、1616年の図だということが分かっているという。今は無き大仏殿が描かれているが、その近くの五条橋は、清水寺に向かっているように見える。清水寺に直進する道にある橋は今は松原橋となっているが、かつてはそこが五条橋で、豊臣秀吉が大仏殿を建設する際に大仏殿に直進する橋を五条橋にしてしまった、という話を以前、何かで読んだ。しかし、この図では、五条橋は今の松原橋の位置にあるようだ。また、橋には欄干があり、これなら、牛若丸も五条橋で弁慶に斬りかかられて、ひらりと欄干の上に飛び上がることが出来るというものです。しかし、かつてみた桃山時代の絵では、五条橋には欄干は無いし、中洲はあるし、中洲にはさらにお寺まであったのに、江戸時代の初めまでには大きく様子が変わってしまったらしい。

15. 江戸名所図屏風(江戸時代寛永期)

以前も観たが、さまざまな芸能が描かれているのが楽しい。神田明神では、神事能の「賀茂」らしきものの後場のをやっている。切能だから神事には相応しいのだろうけど、何故、敢えて「賀茂」と思ってwebを検索したら、賀茂神社で神事能をやっていて、それを移したという話が書いてあるサイトがあった。なるほど。
他に、興味深いところでは、霊岸島のあたりで、首からぶら下げた箱の上にそれぞれ三体づつの人形を遣う傀儡子2人組。元吉原では既に何人もの遊女が三味線を引いている。
それから木挽町の歌舞伎二座と浄瑠璃一座。浄瑠璃小屋では、烏帽子に薄い萌黄か浅葱の狩衣を着た公達が馬に乗っていて、前後に従者を従えながら、上手方向に進んでいる。何の演目だか、前から気になっている。下手で人形遣いが楽屋から人相の悪い人形を受け取っているので、恐らく、これから悪者が出てきて一波乱あるのかもしれない。時期的に古浄瑠璃だろう。寛永年間(1624年から1645年)なので、当然、一人遣い。ツメ人形は一人遣いでも主人公や悪役より小さいのが面白い。太夫と三味線は、下手舞台裏で椅子に座って演奏している。
その隣では、軽業師が、二人で逆立ちをしている。囃子はお能と同じ笛、小鼓、大鼓、太鼓。

22. 春秋遊楽図屏風(菱川師平、江戸時代(元禄〜宝永期)

寛永寺の行楽風景。桜は山桜のようで赤い葉をつけている。かつて寛永寺の門跡が吉野から山桜を植樹したと言われているけれども、この図でも山桜があったということが分かる。黄八丈を着ている人が何人もいる。当時は流行っていたのだろうか。

25. 浄瑠璃芝居看板絵屏風(伝菱川師宣、江戸時代(延宝期))

「塩屋小次郎夜討対決(しおやこじろうようちたいけつ)」という浄瑠璃の絵尽くしのようなものらしい。虎屋小源太夫による金平浄瑠璃(こんぴらじょうるり)の一種らしく、絵尽くしの画面5分の4は、合戦の場面といっていい。
金平浄瑠璃といえば、かつて読んだ、和辻哲郎の『歌舞伎と繰り浄瑠璃』の金平浄瑠璃の章が大変面白かった。この本が浄瑠璃研究の中でどのような位置づけにあるのか、私のような素人にはちょっと分からないが、それでも、晩年の和辻が浄瑠璃を楽しんでわくわくしながら読んでおり、それを読者も共有できる幸福な本だ。読んでる途中で仕事が忙しくなってしまい、最後まで読み切っていないままなのだが、この絵尽くしのような屏風図をみたら、また、『歌舞伎と操り浄瑠璃』の続きを読みたくなってしまった。