国立能楽堂 重喜 兼平

国立能楽堂 普及公演 重喜 兼平
解説・能楽あんない 兼平と義仲、そして巴 佐伯真一(青山学院大学教授)
狂言 重喜(じゅうき) 野村萬和泉流
能   兼平(かねひら) 種田道一(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1125.html

解説・能楽あんない 兼平と義仲、そして巴 佐伯真一(青山学院大学教授)

佐伯先生のお話は、以前、五島美術館の友の会で開催された講演で聴講したことがあり、『平家物語』の諸本や各話の真偽、誰が報告者だったのかの推測、『平家物語』や民間伝承における建礼門院の役割などのお話が大変面白かった(そういえば、休館中の五島美術館は今秋にはリニューアル・オープンしてくれるのだろうか)。今回のお話も短い時間ながら、大変面白かった。

今回上演される曲「兼平」のシテ、兼平とは、今井四郎兼平のことで、源義仲の乳母子。兼平の兄、樋口次郎兼光は文楽や歌舞伎の『ひらがな盛衰記』の「逆櫓の段」に登場する。

木曽義仲に関するお能は、巴御前を主人公とした「巴」と、この、今井四郎兼平を主人公にした「兼平」があるとのこと。巴も兼平も共に、最後まで残った義仲の従者の一人だった(もう一人、文楽や歌舞伎の「実盛物語」に出てくる太郎吉、『平家物語』の中では、「真盛最期」で、斉藤別当実盛を討った手塚光盛太郎がいたが、途中で討たれてしまう)。

しかし、巴の方は、義仲に、「おのれはとうとう(疾く疾くく)、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死(うちじ)にせんと思ふなり。(中略)最後のいくさに、女を具せられたりけりなンど言われん事もしかるべからず」と言われ、仕方無く最後に、恩田八郎師重という義経・範頼方の武将の頸をねじ切って捨てて(!)、東国に落ち延びて行く。そして、兼平と義仲は、二人きりになると、自害するために、粟津の松原に落ち延びていき、それぞれに果てる、というのが、『平家物語』の「木曽最期」の大まかな筋だ。

「木曽最期」を元にしたお能の「巴」と「兼平」は、当然のことながら、「巴」では巴から見た義仲、「兼平」では兼平から見た義仲が描かれており、特に義仲の最期が両者で異なるのだそうだ。

具体的には、「兼平」の方は、『平家物語』に忠実な内容で、兼平が、義仲に対して、自分が敵の軍勢と応戦している間に粟津の松原で自害するよう、強く促す。

というのも、先生のお話では、当時は、いくさで敵に首を取られると、さらし首のされるため、何としても首を討ち取られるのを避けなければならないという考えが武士にはあったのだそう。そのため、一番良いのは、自害して敵に見つからないところに埋葬してしまうことだが、それが叶わない場合は、敵が手を掛ける前に自害してしまうことで、さらにそれも叶わない場合は、できるだけ良い敵に討たれることが良いのだという。最悪なのは、名も知らない雑兵にかかって死ぬことだったのだそうだ。先日観たお能の「敦盛」でも、直実は敦盛を逃せられないことが分かると、雑兵の手に掛かるよりは、と自分で敦盛の首をとった。

しかし、結局、義仲は、粟津の松原に行き着く前に冬の寒さで薄氷の張った深田で、馬の頭も見えないほどの深みにはまってしまう。そして、義仲は死の恐怖を感じたのだろうか、兼平の姿を探して、後ろを振り返る。その振り返った甲(かぶと)から見える義仲の顔を石田次郎為久が認め、義仲の首を取った。これが義仲の最期だった。

先生によれば、平安時代末期の甲(かぶと)は、戦国時代の武具にあるような顔を覆う防具は無く、甲を目深く被ることによって、顔を守っていたのだそう。したがって、深田にはまってしまった義仲は、兼平の姿を探して、「ふりあふぎたまへる」、つまり、頭の位置が低くなってしまったため、仰ぎ見るような形で振り返って兼平の姿を探そうとしたため、甲で隠れていた顔が追手に明らかとなってしまったのだそうだ。たしかに同じく『平家物語』の「敦盛最期」でも、直実は、敦盛を「とッておさへて頸をかゝんと甲(かぶと)をおしあふのけて」顔を見たとあり、この描写も顔を覆う防具は無く、甲を目深に被っていた故の描写であるようだ。

先生のお話では、義仲と兼平は子供の頃から常に一緒にいたため、義仲は巴に対しては主として対応するものの、兼平に対しては、兼平を兄と慕うような様子が読みとれるという。たとえば、本来、義仲は六条河原から北に落ちるにあたり、丹波路を行って北陸に行くと見られていたが、兼平が近江の瀬田に陣を置いていたため、「幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契しに、ところどころで討たれんことこそかなしけれ」と、瀬田に赴く。また、義仲、兼平の主従二人きりになった時に初めて義仲が、「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ鎧が、けふはおもうなッたるぞや」と弱音を吐く(先生のお話では、実際、鎧は数十キロあり、鎧を着けたままの自在に歩き回ることなどはとても無理で、馬に乗っていなければ動くことが出来ない代物だとか)。それに対して兼平は、「それは御方(義仲)に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人(いちにん)候とも、余(よ)の武者騎と思し召せ。矢七八(ななつやつ)候へば、しばらくふせき矢 仕(つこうまつ)らん。あれに見え候、粟津の松原と申(もうす)。あの松の中で御自害候へ」と、義仲を鼓舞し、自害するよう勧める。

兼平といえば、義仲を討たれた後、「『いまはたれをかばはむとてか、いくさをもすべき。これを見たまへ、東国の殿原(とのばら)、日本一の剛の者の自害する手本』とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落、つらぬかッてぞ失せにける」という自害が衝撃的だが(私にとっては『平家物語』の中でも最も衝撃的な死の場面の一つだ)、それだけ強い自己を持っていたが故に、義仲も二人の間では、兼平を頼る気持ちがあったのだろう。そして、そのような忠臣、兼平は、格好のお能の題材だったのだろう。


一方、「巴」の方は、『平家物語』の義仲の最期の描写とは異なる。巴が義仲と別れる時の言葉も「汝は女なり。しのぶ便もあるべし。これなる守小袖(まもりこそで)を木曽に届けよ この旨を。背かば主従三世の契絶えはて。ながく不興」と、『平家物語』とは異なる言葉となっており、巴は、一度、義仲と別れてから、再び、粟津の松原で自害して果てた義仲の死骸を見たということになっている。

この内容について、先生は、これもまた巴自身の心理的体験としての真理なのでは、という趣旨のことを話されていた。先生は、このあたりは詳しくは話されなかったが、おそらく、たとえ現実とは異なっていたとしても、彼女は、義仲は粟津の松原で自害したのだと信じたということだろうか。また、先生の話では、全国に巴御前に関する伝説があるのだそう。例えば、義仲寺は、ある時、ふとやってきた尼が義仲をその場所で祀ったのが始まりで、その尼は実は巴御前だったという話が義仲寺の縁起にあるのだとか。したがって、全く確証はないが、可能性として、「巴」は巴御前の民間伝承が典拠になっているということも考えうる、という趣旨のことを話されていた。


このような「兼平」と「巴」における義仲の扱いの違いについて聞いていると、義仲自身は、実のところ、二人に対してどう思い、どう対応したのかということも気になってくるが、残念ながら、義仲を主人公にしたお能は無い。それもまた、なかなか面白い。


狂言 重喜(じゅうき) 野村萬和泉流

法要を営むことになった住持(野村萬師)が新発意の重喜(野村眞之介くん)に一緒に行くように命じる。さらに住持は法要の前に頭を剃ろうとするが、他の弟子がいないため、しぶしぶ重喜に頭を剃るように言いつける。ところが、重喜が返事して言うには、住持の頭を剃るか剃らないかは「そなた次第」、などと生意気な対応。かと思えば、剃刀を手に当てて研ぎ具合を確かめるのに夢中になって、座って頭を揉んでいた住持に蹴つまづいたりする。まったく師を師とも思わない重喜に、住持は業を煮やして、「弟子とあらば、師の前を通るときはかがみ、七尺を去って師の影を踏まないものだ」と諭す。すると重喜は、これまでの仕儀を詫び、這って歩き出す。師に這って歩く理由を問いただされると「師の前を通るから」と言う。さらに重喜は、頭を剃ろうとして後ろに廻ると飛び退いて、「師の影を踏んでしまった」と言う。師の影を踏まずに頭を剃りたい重喜は、今度は剃刀に七尺の柄をくくり付け、長刀よろしく師の頭を剃ろうとするが…というお話。

重喜は、とんち話の一休さんや彦一、吉四六のように、思いも寄らない小賢しいことを言っては、住持の目を白黒させる。けれども、「師の影を踏まないものだ」と住持に諭されれば、慌てて額ずいて、今まで知らずに行っていた非礼を詫びる。とても憎めない、子供らしい素直さが可愛らしい。そして、「師の影を踏まず」に頭を剃ろうと、七尺の柄の先に剃刀を取り付けて師の頭を剃ろうとするところでは、まるで修羅能のように野村万蔵師率いる地謡が付く。地謡をバックにした重喜の大げさな剃刀捌きには、思わず吹き出してしまう。ところが、案の定、七尺の剃刀では頭が上手く剃れるはずもなく、失敗をしでかした重喜は、「これは面倒」と、驚き慌てる住持を後目に、長刀状の剃刀を肩に担いでお幕の方に向き直ると、あっさりと橋掛リを去って行く。そのあたりが、また、重喜の子供らしい飽きっぽさから来るもので、全然、いやな感じのしない、楽しい狂言なのでした。

子方の重喜の眞之介くんが、so cute! そういえば、2008年1月、当時御年3才?の眞之介くんの「靫猿」を観ていた。あの時も思ったけど、眞之介くんは、大人顔負けの、絶妙な「間」の感覚を持つ役者さんで、先々が本当に楽しみ。


能   兼平(かねひら) 種田道一(金剛流

旅の僧(森常好師)が、木曽義仲が果てた粟津の原で跡を弔おうと、木曽から信濃路を通って近江路を通り、矢橋(やばせ)の浦に着く。僧達の手に持つ数珠の房が鮮やかなスカイブルーで、茶の水衣に映えて目に涼しげ。

[一声]で作り物の舟が後見によって運び込まれると、シテである老人(種田道一師)が橋掛リを歩いてくる。僧は、柴舟を見つけ、舟に乗せてくれるように頼む。最初、柴舟の持ち主である老人は便船ではないからと言って断る。老人は、三光尉の面に、茶の水衣、納戸色の熨斗目に白から深緑のグラデーションの腰蓑という出立。僧は、尚も出家に対する御利益と思って、乗せてくれるよう頼むと、老人は同意して、僧を柴舟に乗せる。舟が出てくるのは、近江八景に「矢橋帰帆」があるからなのかもしれない。けれども柴舟といわれると、禅画の一場面を思い出させる風景だ。

老人は舟を渡しながら、僧に問われるままに、比叡山やそこにある寺社や名所を案内する。そして、粟津に着くと、老人はどことなく消えてしまって、中入りとなる。

狂言では、矢橋の渡し守であるアイ(小笠原匡師)が現れ、僧を見つけ、声をかける。渡し守は、自分の番の時にしか渡さないという規則になっているのに、なぜ、僧が矢橋から粟津に渡ることが出来たのかといぶかる。僧は、木曽殿と兼平の果てたる容体について、渡し守に話してくれるよう所望し、渡し守は、おおよそ『平家物語』の「木曽最期」にある内容を話す。僧が柴舟の老人の話をすると、渡し守は、それは兼平の霊であろうからと、回向をするように勧め、僧もそうすることにする。

後場では、僧達の回向を受けて、兼平の霊が橋掛リに現れる。兼平は、梨打烏帽子に平太の面をして、紅地に金で七宝繋ぎ、花丸文の厚板、黒地の法被に金で紗綾形と飛雲、半切という出立。

兼平は自分が実は矢橋の浦の柴舟の渡守だったことを明かすと、床几に腰掛けると、義仲と共に瀬田より落ち延びて、義仲を粟津の松原で自害するよう進言したが、不孝にも義仲は敵に討たれてしまったことを語り、主を弔ってくれるよう、僧に頼む。さらに兼平自身の最期について物語り、敵の中に分け入って大勢を打ち破った後、「自害の手本よとて、太刀をくわへつつ、逆様に落ちて、貫かれ失せにけり」。そして、詞章は、「兼平が最期の式、目を驚かす有様かな。目を驚かす有様かな。」という文言で終わる。『謡曲大観』では、「目を驚かす有様なり目を驚かす有様」と、何の余韻もなく一気に曲が終わる衝撃的なパターンが記されている。おそらくこちらが元で、これをあまりに唐突な終わり方で具合が悪い思った人が「有様かな」のパターンを考えたのではないだろうか。


展示室

能楽入門展」というタイトルで、狂言関連の展示。

興味深かったのは、狂言で使用される面の「通円」。この面は「通園」という曲で使用され、シテである、宇治川の岸辺にあるお茶屋さんのお能の「頼政」のパロディだ。「頼政」は「以仁王の乱」の失敗後、宇治平等院で自害した源三位頼政の話だが、先日、出光美術館の展示『遊楽・名所・祭礼』で、その室町時代の面を展示してあった。その面は通常の頼政の専用面が悪尉系の顔であるのに比して、ちょうど中将と尉系の面の中間のような感じで、思った。今回、「通円」という狂言の面を見てみると、先日、出光美術館で見た「頼政」の専用面を俗っぽくした感じなのだ。とすると、今の悪尉系の「頼政」の専用面とは別に(または今の専用面の方が一般的になる以前に)、出光美術館の中将と尉系の中間のような「頼政」が、一般的に使用されていた可能性があるのかもしれない、などと想像してしまった。悪尉系の面と中将が年をとったような面では、お能の印象も異なってくるように思う。いろいろ興味深い。