国立能楽堂 働く人に贈る

<国立能楽堂スペシャル>
◎働く貴方に贈る
対談  林 望(作家)×茂木健一郎脳科学者)
能   鵜飼(うかい)空之働(むなのはたらき)  大槻文藏(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1130.html


対談  林 望(作家)×茂木健一郎脳科学者)

面白かったのは、ひとつは「鵜飼」の作者の話。世阿弥よりずっと古い人で、榎並左衛門という人らしいのだが、リンボウ先生によれば、この人は、「柏崎」と「鵜飼」のみ知られているとか。そしてリンボウ先生が指摘したのが、「鵜飼」は日蓮上人と覚しき人が出てくる日蓮宗の話で、「柏崎」は善光寺が出てくる浄土宗の話だということ。

狂言の「宗論」の話を持ち出すまでもなく、日蓮宗と浄土宗は大変仲が悪かった。したがって、この両方から新作の依頼を受ける榎並左衛門という人は、どちらかの信者ということではなく、職業作者であったであのでは、というお話だった。

また、お能の詞章に出てくる念仏の言葉には、「南無阿弥陀仏」という浄土宗の名号が圧倒的に多い、というお話も興味深かった。確かにいわれてみればその通りだが、今までそのことと浄土宗を絡めて考えたことがなかった。今後はせめて、浄土宗か日蓮宗かぐらいは見分けるようにしよう。…忘れなければ。


もうひとつ、「鵜飼」は世阿弥が改訂したもので、どういった改訂がなれたと想像できるかという話もおもしろかった。まず、有名なのは、『申楽談儀』にある「融の大臣の能の後の鬼を移す也」というものだが、その観阿弥が書いた「融の大臣」はどういう内容だったかというお話がまたおもしろい。

今の「融」は世阿弥作で、内容は、融大臣の元の邸宅である六条河原院に観光に来た僧に名所教えをするお爺さんが出てくる前場と、そのお爺さんが実は融大臣でしたということで、融大臣の霊が現れて舞を舞う後場で構成されている。しかし、観阿弥の「融の大臣」は、世阿弥の「融」とは別物で、融大臣が死後、夜な夜な六条河原院に出てくるという『今昔物語』巻二十七 第二の「川原の院の融の左大臣の霊(りょう)を宇陀院見給える語(こと)」等にある説話を基にしていたことが考えられるという。

その「融の大臣」の内容はどういったものかというと、河原院に夜な夜な融大臣の霊が出てきて、当時河原院を融大臣の息子から寄進された宇多院と后に悪さをするという前場があり、後場では、鬼が出てきて、融大臣の霊を打擲する、というような構成だったのではと想像されるという話だった。

そして、その鬼が出てくる後場を、「鵜飼」の後場にもって来たのだそうだ。榎並左衛門の作ったオリジナルの「鵜飼」では、おそらく下位の地獄の鬼が出てきて鵜飼を責め立てたという趣向だったと思われるが、そこをもっと上位の閻魔大王に変更して曲の品位を上げつつ、法華経の滅罪功徳で成仏させるという趣向にしたのが世阿弥、というのが、リンボウ先生の見解だった。

ここからは想像だけど、それでは、世阿弥は、榎並左衛門の「鵜飼」に対して、そのような変更を付け加えることで、どのような効果を出そうとしたのだろうか。

申楽談儀』には、

鵜飼の初めの音曲は、殊に観阿の音曲を移す。唇にてかるがると言うこと、かのかゝり也。この能、初めより終りまで、闌けたる音曲也。「面白の有様や」より、観阿、融の大臣の能を移すなり。かの鬼の向きは、昔の馬の四郎(榎並座の役者)の鬼也。観阿もかれを学ぶと申されける也。さらりききと、大様大様と、ゆらめいたる体也。

と、記されているという。

うまり、前場は、軽々しく(粗末な、重々しさがない様子で)語るというのだか、後場は、さらりきき(軽やかにゆっくりと歩く様?)、大まかで、ゆらゆらとしている様子で演じるという。加えて、「鵜飼」は切能だということも考えるヒントになる。似たような曲に「阿漕」があるが、こちらは修羅能だ。その二つの曲の違いから「鵜飼」の特徴を探ってみるとするとどうだろう。

まず、「阿漕」は、典型的な複式夢幻能だ。前場のシテが老翁で後シテが漁師阿漕の霊ということになっているが、シテが最終的に救われたのか救われなかったのかも分かりにくい。したがって、全般的に陰鬱な雰囲気に支配されている曲だ。

もう一方の「鵜飼」は、前場は、「阿漕」同様、陰鬱な話ではあるが、主にシテの独吟で進行するため、「阿漕」ほどは深刻にならない。前場の終盤、「面白の有様や」の段歌以降は地謡となり、シテが何もかも忘れて、ただひたすら鵜飼をし、捕った魚を食する有様を再現する。ここは聴いている方も、力強いリズム、速度、声量による地謡が大変面白く感じ、舞台にぐっと惹きつけられる場面だ。また、後場では、閻魔大王が出て来て、スケールの大きさを見せつつ、シテは一僧一宿の功徳で成仏するという爽快感がある。

そう考えてみると、世阿弥が「鵜飼」を単なる鬼の能から、閻魔大王を持ち出して、爽快感のある切能にすることにより、スケールやダイナミックさが加えたのだ、と言っていいかもしれない。その当時、古作の「鵜飼」を知っている人が、世阿弥バージョンを初めて観たら。きっとその快い変貌に、驚いたのではないだろうか。


能   鵜飼(うかい)空之働(むなのはたらき)  大槻文藏(観世流

[名ノリ笛]で、ワキの日蓮上人と覚しき僧(宝生閑師)とワキツレの僧(殿田謙吉師)が現れる。僧は、安房(あわ)の清澄から出た僧だが、これから甲斐の国を一見しようと言う。安房清澄寺というのは、日蓮上人が少年時代に修行した場所なのだそう。

ワキの僧達は、角帽子に水衣、熨斗目という出立なのだが、特に閑師の無地熨斗目が納戸色の好い感じに着馴れたように見える。道行の中に「やつれ果てぬる旅姿」という部分があるが、詞章の世界に合っていて、うれしくなる。

道行となって、(甲斐の)石和川につくと、すでに山道を越えている間に夜になってしまったので、僧は宿を借りようとする。

所の者(深田博治師)を見つけて、宿を借りようとするが、宿を貸すことは禁じられているという。代わりに川崎にある御堂に泊まることを勧める。しかし夜な夜な光り物が現れる御堂なので、所の者は、僧達に注意するように言うが、僧は、法力があるのでといって、臆さず御堂に泊まる。

ヒシギの後、[一声]で、漁師と覚しき老人(大槻文蔵師)が、暗闇の中から現れる。三光尉の面に、黒の水衣、濃紺の着流に、白から群青色への裾濃の腰簑姿。右手に松明を掲げて、ゆっくりと大きくリズムをつけて振り回しながら、橋掛リに現れる。

シテは鵜を使うことの面白さと殺生のはかなさについて語ると、

伝え聞く遊子(ゆうし)伯陽(はくよう)は、月に誓って契りをなし、夫婦二つの星となる、今の雲の上人(うえひと)も、月なき夜半(よは)をこそかなしみ給ふに、我はそれに引きかへ、月の夜頃を厭(いと)ひ、闇になる夜を喜べば
鵜舟にともす篝火の、消えて闇こそかなしけれ

と謡う。

この部分は、中国の黄帝の四十番目の息子である遊子と伯陽という女性が夫婦となり、後に牽牛と織女となった由来を述べたものだ。この遊子という人は、旅好きで、死ぬ時に道を行く人を守る人になりたいと神に願い、道祖神になった人でもあるという。

この七夕の由来を語る説話は、中世の古今集の注釈書、『古今和歌集序聞書三流抄』や、和漢朗詠集の注釈書に掲載されているという。深堀するとなかなかおもしろそうな説話なのだが、とにかく、ここでは、中世の鄙の里では、月の出ない夜は、闇夜になる代わりに、夏は全天を覆うように天の川が出ることを描写したのだろう。私も、闇夜に空の両端に大河のように横たわる天の川を見たことがある。子供の頃、夏休みに田舎の祖父母の家で見た天の川だったのだが、まるで空全体にわたって壮大な大河を描くように金粉を撒き散らしたかの如く見えたことを、印象深く覚えている。

そして、鵜飼いの老人は、その営む業(わざ)そのものが、物憂いものだと謡う。

ここは、この曲とは直接関係ないが、西行の歌、

立てそむるあみとる浦の初さをは
つみの中にもすぐれたるかな

が思い出されて、考えさせられる箇所だ。

この西行の歌には、比較的長い詞書がある。それによれば、西行は、ある時、備前国児島の浦で、漁をしている人々を見た。その漁とは、竿を立てその間に袋を張り、アミを捕るやり方なのだが、初漁では、始めた竿を立てた年闌けた人が、「(大漁を祈りつつ、竿を)立てる」と誓願の詞を高らかに叫んでいる。西行は、敬虔な漁師の神に対する大漁の祈りと、彼が知らずに犯す殺生の罪の重さとに思いを致し、涙したという。

西行の生きていた平安時代は、仏教というのはまだ限られた人々の間のもので、漁師のような人々までには、伝わっていなかったのだろう。だから、西行は、重い罪を犯す業を、そうとは知らずに神妙に行おうとしている人を見て、涙したのだ。

一方、この「鵜飼」のシテの鵜使いは、中世の人で、殺生戒が重い罪だということを、既に知っている。西行は、知らずに犯す罪について思い遣ったが、罪の重さを知っていて罪な業を生業とする人間というものの本性の罪深さについては、どう思ったことだろう。少なくとも、中世の人である世阿弥の改訂した「鵜飼」を観た人々は、現代の私達よりもずっと仏教を生々しく捉えていたはずで、当時「鵜飼」を観た人は、彼の呪わしい運命について切実に身に迫るものを感じたのではないだろうか。

「鵜飼」に話を戻すと、シテの老人は、川崎の御堂に入って休もうとするが、そこには僧達がいる。

ワキの僧はその老人が鵜使いであることを知り、その殺生を行う業を止め、ほかの業で見命(しんみょう)を繋ぐよう諭す。

その時、ワキツレの僧が、二三年前に自分がこのあたりの岩落というところを通った時に、この鵜使いが一夜宿を貸してくれたことを思い出し、ワキの僧にそのことを話す。

するとシテの老人は、「その鵜使いは、鵜飼いの業のせいで死んでしまった」という。そして、「その時の有様を語るので、弔ってやって下さいませ」というと、舞台中央に座り、松明の火を地面に押しつけて消す所作をすると、僧にあらましを語って聞かせる。

それは、次のような話だった。その岩落という辺りは、殺生禁断の場所が多く、ある人が、その鵜飼いが殺生禁断の場所で鵜飼いしているところをばらそうと企み、岩落で待ち伏せをする。そこへ鵜使いが現れると、その瞬間を狙っていた人々がぱっと寄り集まった。そして、「彼を殺せ」と叫ぶので、鵜使いは、左右の手を合わせ、「殺生禁断のところとは知らなかった。今後はこのようなことはしない」と誓うが、嘆き悲しめど、助ける人もなく、罧刑(ふしづけ)にされてしまった。そう語ると、シテはその場で崩れ落ちる。そして、罧刑となった鵜使いは叫べども声が出ず、亡くなってしまったのが、この私なのですよ、と告白する。この辺りは囃子も入り、緊迫した場面だ。

僧が、業力(ごうりき、悪業では悪果を生じる力)の鵜を使う様を再現してくれれば、懇ろに弔いましょうと言うと、老人は、感謝の詞を述べて、鵜を使う様を見せる。

ここで、「面白の有様や」で始まる「鵜ノ段」と呼ばれる有名な段となる。ここからは先に触れたたとおり、初めて地謡となって、力強いリズム、速度、声量による地謡が入る。また、シテは松明を掲げて舞台を回ると、今度は、何かにとり憑かれたように早足で橋掛リに向かい、一ノ松の辺りで、早瀬を泳ぐ鮎の墨絵の描かれた扇を用いて網を投げて漁をする様を見せる。地謡も囃子もシテの舞も大変面白く急なテンポで、そのことが、老人が感じる鵜使いの面白さと二重写しのようになる。しかし、月が出てしまうと漁ができなくなり、「月になりつる悲しさよ」で、松明も扇もばたりと両手から落として、その両手を面の前に持っていき、シオル。

地謡の「鵜舟の篝影消えて」で、アシライの笛となり、ゆっくりとしたテンポの囃子の中、シテはゆっくりと橋掛リを去っていく。地謡の「闇路に帰るこの身の名残惜しさをいかにせん」で、二ノ松あたりでワキ座にいる僧の方を振り返ると、またよろよろと歩き始め、二度目の「名残惜しさをいかにせん」でも、三ノ松の辺りで、立ち去り難そうにして去っていって中入りとなった。


ここで、小書無しの場合は、間狂言が入るようなのだが、今回は、「空之働」という小書付きなので、間狂言無しの早装束となる。

この「空之働」の小書は、以前、観世流宗家の清和師が演じたのと、宗家筋といえる関根祥六師が演じたのが、全く違い、私にとっては不思議な小書。パンフレットの村上湛氏によれば、「空之働」は、中入の間狂言を省き手早く着替えた後シテが舞台中央で不動を保つ皮肉な型」とのこと。つまり、清和師と祥六師では、安座している時間の長さが違ったってことだったのかな?しかし、清和師の時はそもそも安座じゃなかったきがするな。それに、世阿弥がせっかく観阿弥の「融の大臣」の能から移してきた舞を、無にしてしまう演出というのも興味深い。確かにここは地謡と囃子が大変面白い、不動であっても面白いのではあるが、一度、小書のない、常の演出がどうなっているかも見てみたい気がする。


シテがいなくなった舞台では、まず、後見がゆっくりと落とした松明と扇を拾い切戸口から帰っていく。ワキの僧が、一字一石経を、川の波間に沈めて亡者となったシテを弔う。


すると、[早笛]となり、急テンポの太鼓入りの神楽のような旋律とともに後シテの閻魔大王が現れる。黒頭、赤い小べし見の面に、唐冠、金地に墨で描かれた火炎太鼓の文様の法被に同色・同文様の半切という出立。

閻魔大王は、
「その鵜使いの男は、若年の昔から漁をしていて、その罪おびただしく、悪業を書いた鉄札は多数あるが、善行についてかかれた金札は一枚もない。けれども、一僧一宿の功徳に引かれ、急ぎ極楽浄土に送ろうと、悪鬼心を和らげて、鵜舟を弘誓(ぐせい)の舟になし」
と謡う。ここに、「悪鬼」という詞があるのは、榎並左衛門の鬼の能の名残なのかも。

閻魔大王は、ゆったりと舞台中央を三角に歩き回る。
「迷ひ多き雲も、実相の風荒く吹いて、千里が外も雲晴れて、真如の月や、出でぬらん。」
という、実景と心象風景が、ない交ぜとなった地謡とシテの掛け合いは、そこだけとれば陳腐とさえいえる表現だ。けれども、世阿弥はその表現を絶妙な場面に効果的に用いていて、この表現で、観る者の目の前の視界がパノラマのように急に大きく広がるような錯覚を与える表現だと思う。

ちょうど[ロンギ]の「ありがたの御事や」で、どっかと安座する。

そして、閻魔大王は、地謡で、奈落の果て沈んだ鵜使いが、仏果を得たのは、法華経の力であると讃えると、そのまま橋掛リの先に消えていてしまい、日連上人と覚しき僧は、閻魔大王が去っていくのを常座で立ち尽くして見守るのだった。


ところで、何故、「鵜飼」という選択だったのかなと思ったけど、この日は旧暦の七夕で、かつ「鵜飼」に七夕の由来に関する詞章が入っていたからでしょうか。意外な曲に意外な詞章。やっぱり世阿弥って、すごいな。