国立能楽堂 特別公演 養老 柑子 舟弁慶(その2)

国立能楽堂 特別公演 ◎方丈記八百年記念
能   養老(ようろう) 金剛永謹(金剛流
狂言 柑子(こうじ) 大藏彌太郎(大蔵流
能   船弁慶(ふなべんけい)重前後之替(おもきぜんごのかえ) 浅井文義(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1136.html

国立能楽堂、特別公演のメモのつづきです。


狂言 柑子(こうじ) 大藏彌太郎(大蔵流

主(大藏吉次郎師)が、酒宴でもらったお土産の珍しい三成の柑子を出すように太郎冠者(大藏彌太郎師)に言いつける。しかし、太郎冠者は、自分がもらったものと思い込み、既に柑子を食べてしまった。仕方ないので、太郎冠者は、三成の柑子のうちの一つのほぞがぬけて、ほろりほろりと落ちましたので、という語り出しで、三成の柑子の運命を語り始めるが…というお話。

お話が可愛らしく、大好きな狂言のひとつ。そういえば、利休は三つ誂えて薩摩の国の弟子に送った黒の楽茶碗のうち、弟子はひとつだけ選び、残りの二つが手元に戻ってきたので、薩摩に残った楽茶碗を「俊寛」と名付けたけど(今は三井記念美術館にある)、この狂言では、「俊寛」にならないよう、三つとも太郎冠者に仲良く食べられてしまうのでした。


能   船弁慶(ふなべんけい)重前後之替(おもきぜんごのかえ) 浅井文義(観世流

今回、この特別公演を観るにあたっての楽しみのひとつは、浅井文義師の「船弁慶」を観ることだった。今年の春、浅井文義師が、素謡で「羽衣」を謡われたのを聴く機会があったのだが、大変、面白かったからだ。「羽衣」の素謡が始まり、冒頭のワキの謡の部分では、実に不機嫌、かつ、つまらなそうな顔をして座っておられて(大変失礼な物言いですみません)、この人の謡を1時間近く聞くことが出来るのだろうか、と不安に思ったが、文義師が謡い出した途端に、その謡の繊細さと、謡の奥に見える可憐で清い心を持つ天乙女の姿に惹きつけられて、あっという間に聴き終わってしまった。

今回の「船弁慶」も、一音一音、考え抜かれた謡いの足取りと、前シテの静御前と後シテの知盛に対する解釈とその表現、舞台全体の構想の面白さに惹き込まれ、あっという間に観終えてしまった。

また、「船弁慶」という曲自体の面白さも改めて感じた。私のように観始めて比較的年数の浅い人間でも、「船弁慶」は、3回観ていて、一番多く観ている曲の部類に入ると思う。それでも、能楽師それぞれに相当に異なる解釈の魅力的な「船弁慶」がある。観る方は、今度はどんな「船弁慶」を観ることができるのか楽しみだし、能楽師の方もきっとやりがいのある曲なのではないだろうか。

なお、小書「重前後之替」とは、パンフレットの金子直樹氏の解説によれば、「前シテの舞が[中ノ舞]から盤渉調の[イロエ掛リ破ノ舞]になり、後シテの登場のしかたも変わり、[舞働]も流レ足などが入り変化に富んだダイナミックな演出になります」とのこと。


ヒシギの後、[次第]の囃子の中、子方の義経(大井風矢くん)、ワキの弁慶(森常好師)、ワキツレの従者が橋掛リを舞台の方向に歩いていく。大井風矢くんは、1999年生まれだそうで、身長もワキの常好師と同じぐらいだし、声変わりの最中のようで、もう子方というにはぎりぎりのところだ。どういう意図で、この年齢の人を義経にしようと思ったのかな、と最初は思ったが、それは、後ほど明らかとなり、後場で大変興味深い効果を生み出すのだった。

義経がワキ座、弁慶がシテ柱のあたり、従者がそれぞれその隣について、[次第]を謡うと、弁慶が名ノリで、

これは西塔の武蔵坊弁慶にて候、さても我が君判官殿は、頼朝の御代官として、おごる平家を亡ぼし給ひ、天下一統の御代となし給ひて候、しかれどもさる子細あって、西国の方へ御下向候ふ間、今日夜をこめ、津の国尼が崎、大物の浦へと急ぎ候。

と謡う。

新潮の日本古典集成の『謡曲集』では、今回の観世流の詞章とは一部異なり、

かように候ふ者は 西国の傍(かたわら)に住まひする武蔵坊弁慶にて候 さてもわが君判官殿は 頼朝のおん代官として平家を滅ぼし給ひ 御兄弟のおん仲日月(にちげつ)のごとくござ候べきに 言ひかひなき者の讒言により おん仲違はれ候こと 返すがへすも口惜しき次第にて候 しかれどもわが君親兄の礼を重んじ給ひ、ひとまず都をおん開きあつて 西国の方へおん下向あり おん誤りなき通りおん嘆きあるべきために 今日夜をこめ淀よりおん舟に召され 津の国尼が崎大物の浦へと急ぎ候

とある。

両方を比べてみると、何となく、今回の観世流の方が後に修正された詞章かなという印象を持つ。後者は義経の御下向の理由を「御兄弟の仲違い」としているが、前者の方は、「さる子細あって」とのみしていて、頼朝との不和については、語っていない。代わりに、「おごる平家を亡ぼし給ひ、天下一統の御代となし給ひて候」という詞があり、後場に知盛の霊が出てくる背景事情をさりげなく提示している。一方の後者は、御下向の理由を仲違いとしているが、この「頼朝の代官として平家を亡ぼしたものの、讒言によって兄弟仲違いをして、諸国をさすらう悲劇の主人公、義経」という義経のイメージは、そのまま『義経記』の後半の義経像であって、もし作者の観世小次郎信光が『義経記』を下敷きに「船弁慶」を構想したのなら、そういった典拠に引きずられた表現もありうるように思われ、そこを曲の焦点を後半の知盛の怒りと怨念に持ち込むために、「おごれる平家を亡ぼし」と修正する人がいたと考えうるように思われる。ほかにも全体にわたって前者には詞章の省略や修正があり、後者を剪定して劇の骨格を見えやすくしたという印象がある。

また、義経伝説との関連で考えると、義経が子方というのも、興味深く思えてくる。普通、義経は特別な人物だからとか、前場静御前とのくだりが生々しく見えないようにとかいう理由が挙げられる。しかし、お能には、中国の皇帝やら天皇やらも出てくるが別に子方ではないし、「重衡」などのようなロマンティックな内容のお能でも子方が出てくることもなく、私自身はそういった説明に、いまひとつ腑に落ちたという気がしたことがなかった。そこで、もう一度、義経伝説について考えてみると、義経のイメージというのは、元服するまでの牛若丸伝説に、非常に大きな影響を受けている。たとえば絵巻などに描かれた義経は、元服後の話でも、たいていの場合、少年のような姿で描かれる。人々が義経に熱狂的な関心を寄せたのは、不幸な生い立ちという運命を背負った貴公子である牛若丸が、己が境遇をはねのけるような大胆不敵な行動をとるところに惹かれたのではないかと思う。そして、そういう牛若丸のイメージが子方の義経というものを生み出す素地になったのではないかと考えてみたくなる。

船弁慶」の方に話を戻すと、義経一行は、舟に乗り大物の浦につく。そこで、弁慶は、判官に対して、これ以上、静御前をお共にするのはこの折節の状況に何かとにそぐわないように思われるので、都へ返された方がよいのでは、と進言する。義経がそれに従う旨を伝えると、弁慶、一ノ松まで行き、揚げ幕の方に向かい、静御前を呼ぶ。

弁慶の声に応じて出てくる静御前は、若女の面に浅葱の小袖、緋の長袴という出立。弁慶は、義経静御前のこれまでの労苦をねぎらいつつも、人の噂をおそれるために、都に帰るよう仰せだと静に告げる。静は驚き、人の心の頼み難さを嘆くが、弁慶の計らいとも思われ、義経に直々に尋ねたいと弁慶に伝える。

静は義経の元に赴くが、弁慶と変わらない義経の詞に、弁慶を疑ったことを詫び、力を落とす。船の門出に凪いだ海を連想させる名前の静をとどめ置くことを嘆き、また神に誓った契りも定めなく、そんな別れの後も命が続くこと恨むが、それは、判官殿に「二度(ふたたび)逢はんとぞ思ふ行末」と謡い、シオル。

義経は、静にお酒を勧めるように弁慶に言うと、弁慶は、静に杯を勧め、さらに門出に歌舞を一さし舞うよう勧める。静はその詞を受けて立ち上がると、「渡口(とこう)の郵船は、風静まって出づ」で始まる、和漢朗詠集にもある小野道風の、旅の安全を予祝する詩を吟じる。

さらに弁慶は、金色の烏帽子を静に渡し、それを着けて一さし舞うようにいう。

ここで、シテは[物着]となる。面白いのは、以前観た時のように常座でクツロいで[物着]になるのではなく、大小前で笛の方向を向き、後見が前後に控えて物着を手伝う。文義師は浅葱の小袖を脱いで、代わりに透明感のある白に金糸と銀糸で朧な横雲を刺繍した絽か何かの舞絹を着て、髪を一つに束ね、金の烏帽子を被る。以前に見た静御前は、唐織を壺折にした装束のまま、烏帽子を着けていたが、白い毎絹に緋の長袴姿で、白拍子そのままの姿で、おもしろいなと思う。

そして、陶朱公は呉王の夫差との会稽山(かいけいざん)での戦いで破れた後、越王の勾践(こうせん)と共に会稽山に籠もり、夫差を亡ぼしたというい会稽の恥を雪(すす)いだ故事を引き、いつかは頼朝の心も青柳が靡(なび)くように義経の心に寄り添うことでしょう、どうして御兄弟の契りが果てることがあるでしょうか、と謡う。

そして、静は橋掛リにシオリをしながら行くと、清水寺の御詠歌「ただ頼め 標茅が原のさしも草 われこの世にあらん限りは」の初句を謡い、[イロエ掛リ破ノ舞(盤渉)]となる。

この舞は、義経の出立を寿ぐものでありながら、静の心の揺れをも表現している。舞の途中、一ノ松まで行き、義経との別れが耐えられないという風に舞台に背を向けて佇むと、意を決したように、舞台の方を再度振り返り、義経の方に一歩一歩、近づく。しかし義経のそばに寄ると、再度、悲しみにとらわれたのか後ずさりしてシオル。その後、囃子が転調して、さらに舞うが、静は、悲しみに打ちひしがれてします。そして、まるで別れの感慨を込めて、絶唱するように、「ただ頼め」で始まる清水寺の御詠歌を謡う。静は義経を見つめながら、「かく尊詠に偽りなくは」と一音一音に祈りを込めるように謡うと、気を取り直して、揚幕の方を向き「舟子ども、はや纜(ともづな)をとくとくとー」と、声を上げると、判官は去り、静は力を落として、烏帽子を脱ぎ捨て、涙にむせびながら、見る目も哀れに橋掛リを帰って行って中入りとなる。

狂言では、アイの船頭(大藏千太郎師)が橋掛リから現れる。船頭は、「我らごときのものでも、静の姿に涙を誘われた、このことを武蔵坊に伝え、武蔵坊に何と思うか尋ねよう」と独り言つ。弁慶は船頭から静の様子について尋ねられ、自分も涙を流したという。

弁慶は船頭に船の用意は出来たか尋ねると、船頭は、足の速い船を用意しているので、いつ何時でも出立可能であるという。武蔵がすぐに出立する旨を伝える。

そこにワキツレの従者が、義経が今日は風が荒いので逗留すると言っていると弁慶に伝える。弁慶は、それは静と別れ難いが故の詞であろうと推量し、そんなことをおっしゃるようでは世も末だと断じる。そして、一年前に渡辺福島を出た時も嵐だったし、今も同じだと言うと、従者も船を出すのが道理だと同意する。

改めて弁慶の命を受けた船頭は、急いで揚幕の中に駆け戻ると、間髪おかずに船の作り物を担いで早足で舞台に戻り、脇座、地謡前に船の作り物を置き、皆に船に乗り込むよう促す。皆が乗船すると、船頭は早速船を出す。

船頭は、弁慶に、一段と天気が良くなってめでたいと声を掛けると、弁慶も、櫨手(ろて)が揃っていて素晴らしいと応え、船頭は、弁慶がそう思うなら満足だという。

その時、武庫山(むこやま)の上に、怪しげな雲がかかっているのを船頭が見つける。たちまち、風強く、波荒くなる。船頭は、自分が櫨を操っているからは気することはないと皆を安心させようとする。ここでは、嵐がどんどんひどくなって行くのを、語りのテンポがだんだん速くなっていくことで表現していて、どんどん緊迫感も上がっていく場面だ。

アイは時々、波を鎮めようと、「ヒーシシシ」と言いながら、櫓を海と水平に持って波を平らかにするように右から左へ動かす。しかし、このようなまじないにもかかわらず、武庫山おろしは収まらず、陸地につきそうもない。

ここで、ワキツレの従者の一人が、この船に怪士(あやかし)が憑いていると言う。船頭は、船の上にあらざる不吉な詞に、「この従者は船に乗る時から何かいいそうだった」と不満を述べる。弁慶は、自分に免じて許して欲しいと、船頭に謝り、船頭も、弁慶がそういうなら、と怒りを収めるが、そこにまた大きな浪が襲来する様子を速いテンポの囃子が表現する。

弁慶が海を見ると、西国にて亡んだ平家の公達が各々浮かんできた。義経は、今更驚くべきことでもないと弁慶を制する。


すると、揚幕が上がり、太鼓の音がどんどん大きくなる中、後シテの知盛の霊が、まるで地面から浮いているかのように、、すーっと滑るように、前に重心を置いた姿勢で、三ノ松のあたりまで出てくる。知盛は、痩男の面に鋤形付の黒頭、白地の着付、浅葱に白の丸紋の付いた指貫に長刀(なぎなた)という出立。知盛は、おどろおどろしく、「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平の知盛、幽霊なり。」と名乗る。「あら珍しやいかに義経、思ひも寄らぬ浦波の、声をしるべに、出で船の」で、いったん、揚幕の中に素早く後退りすると、[早笛]で、改めて揚幕が上がり、知盛が猛スピードで舞台まで出てくる。

知盛は、「また義経をも海に沈めんと、夕波に浮かめる長刀撮り直し」で、義経に長刀を突き付けるが、義経をきっと刀の柄に手を置き、知盛の霊を睨みつける。このあとの[舞働]では、義経の隙を突いて何度も長刀を義経に突き付けるが、その度に義経は刀の柄に手を置いて、知盛の霊を睨み返す。さらに、「その時義経少しも騒がず」で床几から立ち上がると、刀を抜いて構えるが、弁慶が押し戻す。

このあたりの場面は、子方が小さい子供だと、知盛が子方へ長刀を突き付けるのは形式的になるため、あまり迫力が無いのだが、今回は、子方の大井くんが身長も身のこなしも大人とほとんど変わらないため、知盛が義経に対峙する様子に緊張感が生まれ、大変、迫力がある。確かに、知盛は弁慶ではなく義経に恨みを持っているのであり、知盛と義経がはっきりと拮抗して対峙する構図というのは、非常に面白く感じた。


義経を守るべく、義経の前に立ちはだかった弁慶は、数珠を押し揉んで祈祷する。すると、知盛は、猛スピードで、例の宙に浮かぶような足取りで、すーっと橋掛リに向かい、三ノ松まで戻ると、前髪を掴み、また舞台に戻る。

「また引く汐に、ゆられ流れ、また引く汐に、ゆられ流れて」で、つま先立ちですーっと幕の中に入っていき、「跡白波とぞ、なりにける」という地謡が、知盛の霊のいなくなった舞台に響くのだった。