お三輪ちゃんと横笛堂と苧環塚

先日、国立劇場市川ぼたんさん等の踊りと呂勢さん・清治師匠をはじめとする文楽座の人達の演奏で「恋苧環」を観て、ああ、これでしばらくお三輪ちゃんとはお別れね…と思ったのですが、まだもう少し、お三輪ちゃんに関する妄想は続きそうなので、メモを残しておこうと思います。


たまたま、講談社学術文庫建礼門院右京太夫集』(全訳注:糸賀きみ江)という本の解説の部分を読んでいたら、お三輪ちゃんについての妄想の膨らむ、興味深い文章があった。

建礼門院右京太夫という人は、建礼門院の女房で、書の三跡の一人として有名な藤原行成の六代後、世尊寺流藤原伊行の娘だ。彼女は平重盛の二男、平資盛と恋仲にあったほか、平家の歴々の御曹司とも親交があり、平家の盛衰をごくごく間近で観てきた、いわば当事者の一人だ。彼女の書いた『建礼門院右京太夫集』は分類としては歌集だが、詞書が多く、『平家物語』に描かれた平家の人々の普段の姿や心の交流やその後の艱難を、その渦中にいた女房の目を通じて読むことができる。

その『右京太夫集』の解説には彼女の母方の家系、大神氏についての説明がある。あまり長くないので、そのまま引用すると、

(右京太夫の)母の夕霧の家系大神(おおみわ)氏(最近の研究では「大神(おおが)」という説が有力となってきている)は笛で代々楽所(がくそ)(宮中で雅楽を司る所)に使えた伶人(音楽家)の家柄で、作者の祖父大神基政(おおがもとまさ)は笛の名人として『龍鳴抄(りゅうめいしょう)』という雅楽の著書もあり、不世出の天才の技量と見識を物語る数々の説話が伝えられている。母の夕霧も「ことひき」としてやはり著名であったらしい。

ということだそうだ。

大神氏の氏神といえば、もちろん三輪明神。その大神氏は、笛の吹き手として代々、楽所に仕えていたという。右京太夫の祖父の基政が著した『龍鳴抄』は、笛に関する最古の楽書だそうだ。お能を好きだったりすると曲目の解説で、「春は雙調(そうじょう)、夏は黄鐘調(おうしきちょう)といったように季節に応じて、それに見合った調子がある」という話を読んだりする。そのようなことを最初に記したのが、この大神基政という人なのだ。基政に関する説話も多く残っており、たとえば、岩波の新日本古典文学体系の『古事談続古事談』を眺めただけでも、3件の笛や楽器にまつわる説話を見つけることができた。

大神氏と笛…となると、どうしてもあの『妹背山婦女庭訓』の「金殿の談」でお三輪ちゃんがこと切れる時の一節、

小田巻塚と今の世まで、鳴り響きたる横笛堂の因縁かくと哀れなり。

という詞を思い出してしまう。

以前、横笛堂と苧環塚は今はどこにあるか分からないとか、実際には謂われは関係ないとか、そういったことをどこかで読んだ気がして、先日大神神社に行った時は、横笛堂も苧環塚も探そうともしていなかった。


それで改めて横笛堂と苧環塚の所在を確認してみると、横笛堂は奈良市内にある法華寺にあり、苧環塚は大神神社から山の辺の道を少し北上したところにある桧原神社にあるようだ。


法華寺というのは、光明皇后が、彼女の父である藤原不比等淡海公)の邸宅を寺としたもので、総国分寺である東大寺に相対する総国分尼寺として開いたお寺だそう。光明皇后が貧しい人々を救済するために設けた悲田院や困窮した病人のために作った施薬院などは、ここにあったのだという。

だとすると、全くの想像だけど、半二達は、藤原不比等を中心とした物語を作るために、不比等にゆかりの物語や史跡について改めて調べていくうちに、不比等の邸宅跡だった法華寺に横笛堂があることことから、横笛という楽器を入鹿討伐の鍵に使用することを思いついたのかもしれない。実際には横笛堂は、『平家物語 巻十』「横笛」に出てくる建礼門院の雑仕だった横笛という女性が尼になって住んだ場所なので横笛堂と呼ばれるそうだが、ここではそれは無視されているようだ。

ともあれ、横笛ということから、基政をはじめとする笛の名人を輩出した大神氏を思い出したか、または横笛堂の主である横笛という女性と建礼門院つながりで右京太夫の母方の家系として大神氏を思い出したか、あくまで私の妄想だからどっちでもいいけど、とにかく、横笛堂からの連想で、三輪明神苧環伝説をこの物語の中に盛り込むことを思いついたと考えてみると楽しい。

お三輪ちゃんがこの物語の中に登場するのは七夕の日だが、実は建礼門院右京太夫は、新村出氏が「星夜賛美の女性歌人」と呼んだくらい星空や月に関する秀歌が多く、中でも圧巻なのは、五十一首も収められている七夕の歌なのだ。大神氏関連で半二達は右京太夫集を改めて読み直さなかったとも限らず、そのとき、七夕の日に設定することもまた思いつかなかったとも限らない。また、妄想ついでにさらに妄想を膨らますと、建礼門院右京太夫は、父から『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』という書道の伝書を贈られたことが知られている。右京太夫が「庭訓」と名の付く書を贈られたことを、半二達はどこかで目にし記憶にひっかかっていたかもしれない。ここまでくると、ぜんぜん論拠はないけど。


今まで、なぜ、藤原氏の物語の中に三輪明神苧環伝説が絡むのか、不思議に思っていた、ここまで展開してきた妄想はおいておくとしても、その答えは、不比等の邸宅跡にある横笛堂からの連想で笛吹きの伶人、大神氏の氏神、すなわち三輪明神とその苧環伝説にたどり着いたと考えることは可能なのではないだろうか。

だから、横笛堂や苧環塚に直接お三輪ちゃんに関連した説話がなくとも、半二達的には、たぶん、

小田巻塚と今の世まで、鳴り響きたる横笛堂の因縁かくと哀れなり。

なのだ。


いろいろ考えているうちに、改めて大神神社と桧原神社、それから法華寺にも行ってみたくなった。