観世能楽堂 観世会能楽講座 野宮〜合掌留

【公演名】第5回 観世会能楽講座「野宮〜合掌留」
【場所】観世能楽堂
【講師】観世清和(二十六世観世宗家)松岡心平(東京大学教授)
【ゲスト】林望(作家、国文学者)
http://kanze.net/

源氏物語』の中でもっとも人気の高い登場人物は六条御息所だというけれど、私自身は嫉妬で自分を見失う彼女にイマイチ共感できず、あまり関心がなかった。しかし、今回の「野宮」の講座を聞いて以来、興味がわいている。


お能の「野宮」は、六条御息所が伊勢の斎宮となる娘の後の秋好中宮に付き添って伊勢に行くことになり、その前に嵯峨野の野宮で潔斎をしているところに源氏が訪れ、六条御息所と一夜を過ごした場面を描いたもので、『源氏物語』では「賢木」にあるエピソードに基づいている。

その「野宮」は、基本的に『源氏物語』(青表紙本<定家本>系)の「賢木」から様々なイメージを取り入れているが、作者と思われる禅竹は「賢木」には描かれていないイメージを「野宮」に持ち込んでいるというお話で、それがこのお能の中で重要なモチーフになっている。禅竹は『源氏物語』に対する大変深い理解に基づきこのお能を作っているのだそう。


松岡心平先生のお話で興味深かったのは、まず、六条御息所が娘の伊勢行きに同行するということについて。ふつうは斎宮に親が付き添って伊勢に下るというのはないのだそう。それゆえ「賢木」の中にも、

親添ひて下りたまふ例も、ことなけれど(母親が付き添って伊勢へお下りになるという例も、ことさらないけれども)

とあるが、実は、三十六歌仙の一人、斎宮女御徽子(きし、929〜985)が娘に付き添って伊勢に行った例があり、当時話題となったのだという。そのため、「賢木」の六条御息所が伊勢に下る話を読んだ人は斎宮女御の話を思い出しただろうと考えられるという。その斎宮女御の歌で、拾遺集・雑上に

琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをより調べそめけむ

という歌があり、「賢木」はこの歌を嵯峨野の野宮の情景の設定に用いていて、以下のように取り入れているのだとか。

はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶(えん)なり。

ここでは紫式部は、六条御息所のいる野宮は、浅茅が原と呼ばれるような野辺にあると表現している。実は紫式部は「野宮」のことを単に「野辺」と言い、「野宮」という言葉は一度も使っていないのだと松岡先生は指摘していた。そして、そこに琴の音など(「物の音ども」)が遠く絶え絶えに聞こえてくるという情景を描いている。そしてその情景を、「いと艶なり」としている。

一方、禅竹の「野宮」は、「賢木」のこの部分を巧妙に、

遙けき野の宮に 分け入り給ふおん心 いとものあはれなりけりや 秋の花みな衰へて 虫の音もかれがれに 松吹く風の響きまでも 淋(さみ)しき道すがら 秋の悲しみも果てなし

と書き換えている。まず、「野辺」という言葉は「野宮」に置き換えられ、「野辺」、「浅茅が原」という「野」に繋がるイメージを取り去っている。また、「賢木」では「物の音」という言葉を用いて、人の気配を漂わせているが、禅竹は「物の音」という言葉を取り去り、虫の音と風が松の梢をわたる時の音のみを響かせ、「秋の悲しみも果てなし」という情景に変換している。

特に「野宮」では野のイメージに代えて「森」という言葉を詞章全体で「森」のイメージを重ねて強調しており、これは松岡先生によれば、伊勢の森を連想させるためではないか、ということだった。

これは一つには、定家が女性に成り代わって詠んだ新古今集・恋四(1320)に見える歌、

消えわびぬうつろふ人の秋風に 身を木枯らしの森の下露
(わたしに飽きて心変わりしてしまったあの人。私は身が焦がれるくらい嘆きの涙を流し、いまはもう、木枯らし森の下露のように、消え入ってしまいそうです)

に詠まれた心象風景をベースに、禅竹は「野宮」の世界を描こうとしている。「野宮」の詞章では、「野の宮の 森の木枯らし秋ふけて 森の木枯らし秋更けて 身に沁(し)む色の消えかへり」という部分でこの歌を取り込んでいる。

また、「森」というイメージには、伊勢神宮を取り巻く「伊勢の森」のイメージが重ねられており、この野宮という場所が「神域」であることを強調するための舞台設定なのだという。禅竹の「野宮」では、六条御息所の回想の中心は、「長月の七日」の日の思い出、つまり、源氏との最後の逢瀬の夜の思い出であり、本来、潔斎の場である野宮で源氏に逢うことは禁忌であったにもかかわらず、その夜、六条御息所は源氏と物語し後朝の別れをする。ここで森のイメージが強調されることにより、「深い闇」「禁忌の聖域」というイメージが「長月の七日」の日の思い出をより鮮明に描き出しているのだという話だった。


実際に、演能においても「聖域」というイメージは重要視にされていて、ワークショップの時のお家元の説明によれば、「野宮」では野宮の作り物として、正先に「賢木」にも描かれている「黒木の鳥居」とともに「小柴垣」が出される。そしてこれらは結界を示しているのだそう。終盤、後場のクライマックスとなる

ここはもとより 忝なくも 神風や伊勢の 内外の鳥居に 出で入る姿は生死の道を

で、源氏の跡を追い求めて鳥居の外に出ようとして鳥居の外に足を踏みだそうとするが、結界を踏み越えることは出来ず、あきらめるという型がある。この型は観る者に強い印象を残す。ちなみにお家元によれば、その場面を演じていると鳥居の作り物に縁取られた向こうに、今にも居眠りしそうなお客さんが見えるそうで、内心「あと5分、がんばって起きていて!」という気分になるのだとか。ええ、見所の私たちも自由気ままに寝ているように見えるかもしれないけど、そーゆー時は気を失いそうになるのを必死に耐えているのですよ!!

ワークショップでは、他に「合掌留」についての話。先代のお家元には「合掌留」は嘘の合掌と思えと言われていて、六条御息所は本当は合掌して源氏を赦して解脱したいとは思っていないのだとか(確か)。それから面について。普通は少しきつい印象の増などを使うが、お家元は優しい印象のある「節木増」を使うという。林望先生などもおっしゃっていたが、六条御息所は本当は嫉妬深いのではなく、孤高の人なのだという考えからのよう。確かに、六条御息所孤高の人であるがゆえに、源氏の無理解と自分への飽きや嫌気に対して、深く苦しみ悩むのかもしれない。そして、紫式部の『源氏物語』の文体や『紫式部日記』を読む限り、『源氏物語』の登場人物の中では、最も紫式部に近い人のようにも思える。


それから、松虫のイメージに関するお話。禅竹は先に挙げた野宮のイメージ描出のための、

遙けき野の宮に 分け入り給ふおん心 いとものあはれなりけりや 秋の花みな衰へて 虫の音もかれがれに 松吹く風の響きまでも 淋(さみ)しき道すがら 秋の悲しみも果てなし

という部分で、虫の声がかれがれに聞える、淋しい情景を提示している。さらにその虫は、終曲部、序ノ舞の後の、

露うちはらひ とはれしわれもその人も ただ夢の世と 古りゆく跡なるに たれ松虫の音は りんりんとして風茫々たる 野の宮の夜すがら なつかしや

という部分から松虫だということが分かる。

この松虫に関して、紫式部は『源氏物語』の「鈴虫」の中で、秋好中宮がわざわざ野辺から探しだした松虫を六条院の庭に放っていた。源氏はその松虫を「いと隔て心ある虫」とし、鈴虫を「心やすく、いまめいたる」としている。実際、「松虫」は、人がいるような場所では鳴かず、また連れ鳴きもしないという。一方、鈴虫は人のいる所で連れ鳴きをする。禅竹はその松虫に孤高の六条御息所のイメージを重ねているのだとか。

ちなみに、「昔の松虫は今の鈴虫で、昔の鈴虫は今の松虫」という説明をよく見かけるが、これは、禅竹が「野宮」や「松虫」で、松虫に「りんりん」と鳴かせたのが、混乱の原因だったのだというのが松岡先生の説。というのも、当時は松虫も鈴虫も「りんりん」または「ちんちろりん」のどちらで鳴くか書き分けはなされておらず、お能の詞章に「ちんちろりん」と書くわけにも行かなかった禅竹が松虫の鳴く音を「りんりん」と書いたため、江戸時代の文人を中心に転換説が起こり、今に引き継がれているとか。すごーい。