東大駒場 世阿弥シンポジウム第2回「世阿弥の老い」

第2回 世阿弥シンポジウム2013「世阿弥の老い」
2013年10月23日(水) 17:00-20:00(開場16:30) Place: 東京大学駒場キャンパス18号館ホール
世阿弥生誕650年の今年、世阿弥の能を多角的にとらえるシンポジウム(3回シリーズ)の第2回目が、「世阿弥の老い」をテーマに東京大学駒場キャンパスで行われる。

プログラム
17:00-17:30 講演 「〈老い〉から見た世阿弥」:松岡心平
17:30-18:20 ワークショップ 「世阿弥の能『姨捨』を読む」:観世清和小林康夫
18:30-20:00 ディスカッション 「世阿弥の老い」:観世清和小林康夫・松岡心平・土屋恵一郎・石光康夫・横山太郎
使用言語:日本語|入場無料|※予約申込

主催:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻 表象文化論コース
共催:一般社団法人 観世会
協力:東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)
「観世文庫所蔵能楽関係資料のデジタル・アーカイブを活用した新しい能楽史の構築」(科学研究費)
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2013/10/2nd_zeami_symposium_2013/

すごく刺激的な議論が展開され、終了するのも名残惜しかった。すっかり暮れてしまった夜空に「姨捨」を思いながら、足取り軽く帰りました。


今回は、能楽における『老い』というのがテーマ、お家元が近く「姨捨」を演じることから、「三老女」の中の最高の曲とされる「姨捨」が取り上げられ、議論が展開された。

一番、刺激的だったのは、第三部のパネル・ディスカッション冒頭での土屋惠一郎先生の「老体は老人が演じるものなのか」という問題提議。たとえば、普通、能楽師は年をとってから老人物、特に三老女を、「卒都婆小町」→「鸚鵡小町」→「姨捨」といったルートをとって演じていくのを目標とする(ほかに、その人の考え方で「卒都婆小町」→「姨捨」、「卒都婆小町」→「檜垣」→「姨捨」などのルートをとる人もあるとか)。しかし、「老体を演じる」ということと、「老いた能楽師が演じる」ということは別のこととして考えなければいけないのではないか、というのが、土屋先生の提示した疑問だった。

実際、先代のお家元は、「老女物は写実ではない。だから、腰を曲げたり、よたよたと歩くといったことをすべきでなく、雰囲気を漂わせることを流是とする。」としていたそう。現お家元も、「能では雰囲気を出すということはしますが、歌舞伎のように役作りはしないんです。もし腰を曲げて歩くような演じ方をするようなことがあれば、それは私の監督不行き届きです!」と力説していた。

また、世阿弥は、第一部の松岡心平先生の基調講演では、50才以降という壮年期に俄然、活動的になり、神能以外にも老体の能を多く作っており、たとえば「関寺小町」は56-57才の頃、「檜垣」は60才前、その他、「姨捨」、「山姥」などもそのくらいの時期に制作されたという話だった。世阿弥は身体による演技を抑制し、内面の力で表現するという「動十分心、動七分身(どうじゅうぶしん、どうしちぶしん)」(『花鏡』)という考えをとり、それが老体物によって老いの美学を追求することに繋がっていったという。

加えて、世阿弥はむしろ「年をとったら、格が下の鬼能をやるべき」と考えていたという。年をとってから格が低い能をやって自由な境地を見せるという考え方なのだとか。これは「世阿弥シンポジウム」の第一回で、笛方の藤田六郎兵衛師が、
「能は我慢の芸能だ。本当は乱拍子のような躍動的な笛を入門の頃にやったら、さぞ楽しかっただろうと思う。しかし、実際にはそうせず、非常に単調な制限の多い曲から習う。そういうものを修めた上ではじめて、縛りを取り払って乱拍子のような曲を演奏すると、深い表現をすることができる」
という趣旨の話をされていた。「格下の能」云々の話は、それに通じる話だと思った。

そして、土屋先生の問題提議の核心は、「老体」を舞うということは、単に老人を舞うということではなく、年齢を重ねて得た自由な境地を舞うというということであり、それはむしろ老人が舞う様子に見えるかどうかなどより、老齢となって獲得した自由な境地を抑制された舞の中で表現できるかどうかが重要なのではないかとという問題提議であると、私なりに理解した。

その話を聞いて、思い出したのは、今年9月の観世流定期公演で観たお家元の「遊行柳」だ。「遊行柳」は回国行脚する遊行上人のところに西行の古歌に詠われた柳の精が現れて交歓するお話で、尉系の面をした柳の精が出てくる。曲趣もさびさびとした印象になっている。ところが、お家元の柳の精は、老い感じさせるというよりは、力強さや大きさを感じさせる演能で、想像していたものと違ったので、すごく不思議に思った。

それから、その後観た企画公演の「檜垣 蘭拍子」の蘭拍子も、「道成寺」の乱拍子に負けない非常に力強いもので、老女の檜垣と「道成寺」の白拍子花子が二重写しとなる瞬間があった。それ以外の部分でも、いかにも老人という感じはなく、そのときも不思議に思った。

しかし、こうして土屋先生の問題提議について考えてみると、老体を老人のように役作りして演じたり、または老人だから老体を演じるというのは、能の本質から見た老体の能の演じ方からは離れた行き方なのだということになりそうだ。


それでは、老体によって世阿弥が表現しようとしたものは何だったのだろう。たとえば、今回、採り上げられた「姨捨」では、世阿弥は何を表現しようとしたのだろうか。それについても、またもや土屋先生の、
「そこに女を見なければならない。」
という言葉がものすごく示唆的だった。

とはいっても、これはパネル・ディスカッションの終わり近くに、松岡先生が土屋先生がよく言っていた言葉を思い出して挙げた言葉だ。以前、土屋先生と松岡先生が「橋の会」をされていた時代に、松岡先生が抽象論に走りそうになると、土屋先生がよくこの言葉を言っていたのだとか。

この「姨捨」は、あの「楢山節考」とはぜんぜん違う話で、一人捨てられた老女が、秋を友とし、月の光の中、ワキの僧のことも忘れて夜遊に袖を翻し、最後は「姨捨山となりにける」という、ものすごくスケールの大きい物語だ。お家元によれば、「前シテは山姥の心で、後シテは月光菩薩の心で演じる」と言われているのだという。

ワークショップではお家元が後シテを演じて下さり、私は初めて「姨捨」を後場の部分だけだけど、仕舞で観ることになった。わざわざススキの作り物(とゆーか本物)を生けてあったりしたこともあり、煌々とした月明かりの中、どこまでも広がる薄原で一人、神とも人ともつかぬ老女が舞っているような舞だった。

その中で非常に印象的だったのは、(ワークショップでは省略された)序ノ舞が終わり、
「たはぶるる舞の袖、返せや返せ、昔の秋を、思い出でたる」
という一節が謡われた後、
「妄執の心」
という言葉が続き、正先にいるシテがその面を伏せる部分だ。私は事前に詞章を読んだことは読んだけれども、「妄執」という言葉がこのお能の中にあるということをあまり深くとらえておらず、ここでちょっとびっくりしてしまった。実際、このお能は「妄執の心」という言葉で、クライマックスを迎えるのだ。シテはその直前まで月に照らされながら自由な境地を舞い、そのまま紫雲に乗って去っていかんばかりだ。それがここで一転して、曲のクライマックスで「妄執の心」と謡い、面をくもらせる。私はこの展開に驚き、思わず配布された資料にあった詞章を見直してしまい、その直後の所作を観ることができなかった。仕舞の後でお家元がした解説によれば、「妄執の心」の部分は一番大事とされる箇所で、面を伏せた後、ふっと面を正面からそらすのだという。

ほとんど月光菩薩のような境地で、月明かりの中、一人、袖を翻して夜遊の舞を舞う老女の心に宿った妄執とは一体何なのだろう。

小林康夫先生の話によれば、それは、ひとつには、
「盛りふけたる女郎花の、草衣しほたれて、昔だに捨てられし程の身を知らで、また姨捨の山に出でて、面を更科(さらしな)の、月に見ゆるも恥かしや」
という心であり、また、序ノ舞の後のワカの、
「わが心、慰めかねつ、更科や、姨捨山に照る月を見て」(詠み人知らず)で詠われた心なのだという。

つまり、彼女は檜垣女のように遊女だったかもしれず、老いて姨捨山に捨てられ、その姿を月にさらされ(「更科の、月に見ゆる」)、恥かしく思うのだ。そして、月明かりの中、自分の中に、慰めかねる心を見るのだ。

お家元は、ワークショップで仕舞をされる前に、「クセの部分は『たくまず』舞うべしと言われており、舞の中で『月に照らされる老女の心』を見てもらえれば」というような趣旨のことを話された。このクセの部分は観世流は強吟で音域を広くとり謡い、宝生では弱吟で柔らかく謡うのだとか。

私は仕舞の後、お家元の「月に照らされた老女の心」という言葉を思い出しながら、以前、自分が多摩川の土手で見た光景を思い出した。春先の花曇りの頃、たまたま外出先で多摩川が近かったので、何とはなしに多摩川の土手を登ってみた。登りきると、空が開けていて川の向こうには今にも雨が降りそうな暗い雲が垂れ込めていた。そしてその場でぐるっと回って背後を見やると、それまで気がつかなかったが、雲が切れていて晴れ間が広がっていた。私は、広い空のある部分には暗く重い雲が垂れ込め、またある部分には晴れ間が広がる光景を見て、「まるで人生みたいだな」と思った。この「姨捨」の「月に照らされた老女の心」というのは、ちょうどこの逆の光景ではないだろうか。遠く空に暉やく月から見下ろした老女の心には、その光によって、老女がそれまで人生で経験した様々な心境が照らし出されるのだ。

そして小林先生は、そこで表現されるのはユングのいうアニマ(女性の魂)であり、エレガンスであり、それはとりもなおさず観世音菩薩に通じるのだという。だから三老女の最高峰なのだと話されていた。

実は、土屋先生がパネル・ディスカッションの冒頭で「老体は老人が演じるものなのか」という問題提議をした際、同時に「老女物は三番目物の格で演じるべきでは」ということもおっしゃっていた。ここまで来て、私の中で、これまでの話が繋がった気がした。しかし、一方で、ここでいう「女」は、男の人から見たアニマとしての「女」であり、女の人は決して見ることのできない「女」像であることも感じた(大体、女性は「女性の魂」という言葉から「エレガンス」なんて連想しないもんね。それとも私だけヘン?)。そのときだけは、自分が男の人でなく、そこで言われている「女」という言葉を深く共感できないことを、ものすごく残念に思った。


そして、それだけで終わらないのが、この能のすごいところで、小林先生が熱心に語っていたけど、最後、シテは消えてしまったり飛んでいったりするのではなく、なんと「山」(姨捨山)になってしまうのだ。お家元によれば、演じる時は、曲の最後に下居する時、身体は土に返るが心は月に戻る心で演じているのだという。

石光康夫先生は、絶世の美女の小野小町が死んで徐々に朽ちて行き、最後は小山になる九相図に「あはれ」を感じる当時の人々について触れた。その感覚は、先日、松岡先生が国立能楽堂の普及公演「実盛」の解説で話されていた「禅的センス」にも繋がると思う。観阿弥原作の「江口」の普賢菩薩となった和泉式部のように、白雲に乗って西の空に消えてしまうのではなく、「姨捨」の老女は山に返ってしまう。日が昇れば、そこには一面、ススキに覆われた山があるばかりなのだ。何百番もあるお能の際奥の秘曲がそういう曲であるということに強い感銘を受けた。これまで、それを舞うことの出来た選ばれたごく少数の能楽師は、一体、どんな心境で舞って来たのだろうか。