国立能楽堂 4月普及公演 長光 忠度

国立能楽堂 4月普及公演
解説・能楽あんない  名乗らぬ忠度  天野 文雄(京都造形芸術大学教授)
狂言 長光(ながみつ)  井上 松次郎(和泉流
能  忠度(ただのり)  高橋 忍(金春流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2015/4133.html?lan=j

桜のお能と言えば何と言っても「熊野」や「西行桜」が思い浮かぶけど、「忠度」もまた、はんなりとして短い期間に散ってしまう桜を思い起こさせるお能でした。


忠度といえば、『平家物語』巻七の「忠教都落」にあるエピソード、『千載和歌集』に「詠み人知らず」として収載された歌を俊成に渡し時の話が有名だ。

歌道にも武道にも優れていた忠度は、都落ちする前に、和歌の師であった藤原俊成を訪ねる。そこで、忠度は俊成に最後の暇乞いをすると共に、勅撰集編纂の噂を聞いたと言って、自分の書き溜めた歌のうち、秀歌と思われるもの百余首の巻物を俊成に渡した。その後、千載和歌集が編纂されたとき、忠度の、
「ささなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな」
という歌が採られた。しかし、勅勘の身であったため、「詠み人知らず」とされた、というもの。

その「詠み人知らず」のエピソードと、お能の「忠度」のせいで、私自身は忠度のことを漠然と「名乗りたい人」というイメージがあった。今回の天野先生の講演は「名乗らぬ忠度」というタイトルで、意表を付いた。

実際、忠度は『平家物語』の「忠教最期」でも、敵に名乗ることは無かった。なぜその人が忠度だと分かったかというと、忠度の死後、その遺体の箙に文が結びつけられており、そこに、「度宿花」という題詠の、
「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」
という辞世の句と共に忠度の名が書き付けてあったからだ。

天野先生によれば、名乗らなかったのは、岡部六弥太が名乗るほどの敵ではなかったからではないかということだった。

今回の天野先生の解説のタイトル「名乗らぬ忠度」は、一つには、最期に名乗らなかったという事実から付けたタイトルであり、もうひとつは、お能で忠度が名乗っていないことから、付けられたのだそう。

この曲はタイトルがすでに「忠度」なので、私自身、てっきりシテが忠度なのは疑う由もないことだと思っていた。しかし指摘されてみればその通り、他の複式夢幻能のようにシテが「今は何をかつつむべき」とかいって名を明らかにする場面はない。

天野先生もかつてはこの「忠度」を定説と同じようにシテが忠度なのは自明と思っていたそうだだが、ある日、授業で詞章の最期にでてくる、
「(忠度であることが)今は疑ひよもあらじ」
という部分で、何故、「今は疑いよもあらじ」なのかと、ふと思い立ったそう。そこで、詞章を子細に点検してみると、間狂言をぬかせば、シテが一度も名乗っていないことに気が付いたのだそう。(間狂言は五百年ぐらい前にできたもので、作者である世阿弥の頃のものではないらしい)。

また後場でワキの俊成の御内の僧が、
「中にもかの忠度は、文武二道を受け給ひて世情に眼高し」
と語る部分がある。ここにでてくる「かの忠度は」という部分は観世・宝生の上掛リでは「この忠度は」だそうだが、下掛リでは「かの忠度は」となっているのだという(今回の公演は金春流)。金春流の方が古い詞章の形を残していると考えられるが、「かの忠度」といっているということは、目の前のシテが忠度であるという前提に立っていないと考えられるということだった。

さらに、前場でシテが忠度に対して尊敬語を使っている部分があり、その部分は従来、自敬表現だとか、視点が六弥太に移っているとかいった説があったそうだが、その部分も、シテが忠度とは分かっていないまま、話が進行しているという証拠だと考えられるのだとか。

これらの点から、世阿弥は、このお能の中では、シテが忠度であることを最後まで隠し、キリにやっと忠度であることが明らかになるという構成にしているのだというのが天野先生のご説だった。

この曲では千載集にとられた「ささなみの」ではなく彼の辞世の句である「ゆきくれて」の方をとっているのも、きっと、「ゆきくれて」の歌こそが忠度の名前添えられていた歌だったからでしょうか。

やっぱり詞章はしっかりと読むほど面白い、ということを改めて感じさせられるお話でした。それにしても、忠度の歌は二つとも西行を思わせるような風情があって良い歌だと思う。彼はきっと西行と同じように桜が好きだったのだろう。


演能の方は、忠度の歌を取り入れた詞章と複雑で繊細な旋律の美しさ、後場の中将の面となった忠度の美男子ぶりが印象的でした。桜自体が作り物などの形で出てくる訳ではないのだけど、桜を見たような、すっきりとした後味のお能でした。