清水寺縁起と盛久

国立能楽堂の定期公演で「盛久」を見たら、東博で見た清水寺縁起には盛久のことがどんな風に書いてあったのか、どうしても知りたくなった。


東博の展示はとっくの昔に終わっていて現物を確認することはできないので、東博清水寺縁起が掲載されている「続々日本絵巻大成 清水寺縁起 真如堂」(中央公論社)を見てみた。すると、詞は違えど、お能の「盛久」とほぼ同様の内容。異なるのは、道行が無いこと、土屋某が出てこないことと、打ち首の時刻が夕刻になっていることぐらいだろうか。

「続々〜」の解説によれば、「清水寺縁起」は永正一五年(1517年)より制作を開始し、永正一七年(1519年)に完成したことが明らかになっているという(が、東博の解説では永正一四年となっていた。まあ、そんなあたりのことです)。一方、お能の「盛久」の方は、国立能楽堂のパンフレットの井上愛氏の解説によれば、世阿弥の長男である観世元雅の作で応永三十年(1423年)八月十二日の年記を持つ世阿弥自筆本が残っているということなので、それ以前の作ということになる。したがって、お能の「盛久」の方が先、ということになる。


それでは、元雅は、そもそも盛久のエピソードを何から採ったかということになるが、平家物語長門本という異本が元になっているという。


そこで、平家物語長門本を見てみると、確かに巻二〇(最後の巻)に盛久のエピソードが掲載されているのだが、大まかな話(京から鎌倉に連れて行かれ、首を着られそうになったところ、清水寺の御利益で刀が折れ、頼朝に助けられるという筋)はお能の「盛久」と同じであるものの、細部で下記のような違いがある。

  1. 盛久は勤行を行っただけでなく、等身大の千手観音を造立し清水寺のご本尊の脇に据えた。
  2. 土屋三郎宗遠(むねとお)は、首をはねるよう、梶原景政に命じられ、由比ヶ浜で盛久の首をはねようとしたが、刀が三つに折れた(お能では確か土屋某ではなくワキツレが首を打とうとした記憶がある)
  3. 霊夢を見たのは、盛久でも頼朝でもなく、頼朝の室家(奥さん?)ということになっている。ちなみに、どういう風に描かれているかというと、「兵衛佐殿の室家の夢に、墨染の衣きたる老僧一人出来(いできたり)て、『盛久、斬首の罪にあてられ候が、まげて宥免(いうめん)候へき』よし申す。室家、夢中に、『誰人(たれびと)にそおはするそ』。僧申けるは、「我、清水辺に候小僧なり」と申すとおほえて夢覚て…」となっている。水晶の数珠に鳩杖というのは、元雅の創作だろうか。
  4. さらに後日談があって、盛久は許されただけでなく、かつての領土を安堵(元に戻す)され、更に京の都に帰ったところ、清水寺の良観阿闍梨に、「去六月廿八日夕刻に御辺の安置し奉給たり本尊、にはかにたほれおはして、御手二に折れぬ」と告げられた。故にこれは、観音の奇瑞と伝えられたようだ。


ということは、元雅は、長門本平家物語の盛久のエピソードを、より劇的になるように改変し、それが、東博清水寺縁起に取り入れられた、ということになるのだろうか。こうやって長門本お能の「盛久」を比べてみると、明らかにお能の「盛久」の方が感動的な話になっていて、改めて、元雅の才能は素晴らしいと思わされたのでした。


また、東博清水寺縁起が制作された時期、永正一五年というのは、戦国時代真っ最中で、盛久のような人のエピソードは武士の鏡として好ましく思われたのかもしれない。お能「盛久」の上演も、この前、表先生が配られたプリントによれば、江戸時代まで五流で途絶えたことがなかったらしく、武士にとってははずせない曲だったのかも。


ちなみに、平家物語長門本というのは、岩波文庫の「平家物語」(覚一本系と呼ばれるものが基になっているらしい)とは、結構細部が異なるようだ。例えば、盛久のエピソードも長門本にあるものだし、他にも、ぱらぱら眺めてみただけでも、平重衡が鎌倉に連行される前に義経が一時預かっていたとか、安徳帝が入水する時、例の「今ぞ知る御裳川の御ながれ波の下にもみやこあるとは」を詠んだという話も載っている。きちんと読んだらもっといろいろ発見がありそうな気がする。他にも様々な系統の本があるらしく、平家物語の世界もなかなか奥が深いようだ。