国立文楽劇場 4月文楽公演 第1部

公益財団法人文楽協会創立50周年記念・竹本義太夫300回忌 4月文楽公演
【第1部】
伽羅先代萩 めいぼくせんだいはぎ
 竹の間の段、御殿の段、政岡忠義の段、床下の段
新版歌祭文 しんぱんうたざいもん
 野崎村の段
釣女 つりおんな
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2013/2140.html

ゴールデンウィークの初日に、観に行きました。前日まで結構、ばたばたしていたので、朝起きたら速攻で家を出て新幹線に飛び乗ればいいや、ぐらいに思っていたら、新幹線の切符売り場のディスプレイでは指定席がぜーんぶ満席という表示が出てて焦った…。今後の教訓としよう。

今回一番面白かったのは、「先代萩」、そして、お芝居とは別のところで感動したのが住師匠の「野崎村」、狂言的観点から色々発見があった「釣女」、好きじゃないけど観終わった後も物語についてずーっと考えを巡らしてしまうのが「心中天網島」という感じでした。


伽羅先代萩

文楽先代萩は多分、初めて観た。私自身にとっての先代萩は、人生で二回目に観た歌舞伎の先代萩の通しで、菊五郎丈の正岡と、仁左衛門の八汐・細川勝元二役という配役だった。それで心を鷲掴みされてしまい、古典芸能の世界に興味を持つきっかけになった。それで、文楽先代萩もとても楽しみにしていた。歌舞伎と異なる部分が結構あったので、そこを観るのも面白かったし、なにより、華やかで、パンフレットの清治師匠のインタビューにある通り、いかにも浄瑠璃らしい、親子の情と忠義の葛藤が主題の物語で、面白さと迫力は文句無しなのでした。

竹の間の段

「竹の間の段」は、「竹の間」、「御殿」、「政岡忠義」の一連の段に出てくる主要登場人物が全て登場し、鶴喜代君とその乳母の政岡がどういう境遇にあるのかが描かれている段。鶴喜代君の父、足利義綱公は、家臣のお家乗っ取りの陰謀渦巻く中、失脚して蟄居の身。今度は、その世継ぎである若君の鶴喜代君が命を狙われている。乳母の機転により、鶴喜代君は病で男性を寄せ付けず、食事も受け付けないということにしてあり、そのために家臣の妻達が代理戦争をしようとしているのだ。

悪役の八汐が典薬の妻、小巻を連れてきて鶴喜代君の作り病を暴こうとしたり、忍びの者を仕込んだりするが、沖の井の絶妙な捌きで、八汐の悪巧みは露呈する。沖の井は、歌舞伎でも良い役なのだそうだけど、政岡や八汐より格下の役者さんが演じるので、大抵、沖の井がその場を捌いてすっきりするという感じの場にはならない。文楽ではそういった遠慮はないので、面白い。

また、そのような悪巧みの中にあって、政岡が八汐の手下に無実の罪でとらえられそうになると、鶴喜代君は、政岡をとっさの判断で庇い、「そんなに牢に入れたくば、政岡が代わりに其方たちが牢へ行け。」と言う。歌舞伎だとこの台詞を子役の子が言うと可愛らしいので笑いが起こるところだけど、文楽では、笑いが起こるような場面ではないみたい。ともあれ、鶴喜代君の詞や態度から、この若君が、傾城高尾に溺れてしまった父義綱公とは違い利発であること、政岡が日頃から忠義を尽くしており、鶴喜代君から全幅の信頼を寄せられていることが、分かる。

沖の井の取りなしで無事、その場は納まり、政岡、鶴喜代君、千松を残して皆、退場する。


御殿の段

後には、乳母の政岡と鶴喜代君、千松が残され、政岡はほっと一息付くと共に、おなかを空かせた若君と千松のために茶道具でご飯を炊いておにぎりを作る。

まだ幼い子供達なのに、ひもじい思いをしてやせ我慢をして、口にできるものと言えば、おにぎりのみ。それというのも、彼らには全く非はないのに、邪な野心を抱いた大人達の抗争に巻き込まれてしまったからだ。彼らを守ってくれるのは今や政岡だけ。だから、鶴喜代君は自分自身の、千松は鶴喜代君の命を守るために、けなげに政岡の言いつけを守って、決してひもじいなどとは言ったりせず、政岡に誉められようと、涙を堪えて必死にのやせ我慢している。観ている方は心を痛めずには観られない場面だ。

あどけない、やんちゃ盛りの子供達に、このような辛い思いをさせ、孤立無縁で若君を守らなければならない政岡は、涙を堪えることが出来ない。しかし、鶴喜代君の幼いながらも主君然として政岡や千松を気遣う詞に、政岡も気を取り直し、おにぎりを作って二人に食べさせる。歌舞伎では省略されてしまったりする場面で、そうなると観ている方はいたたまれないけど、現実ではないのに、ほっとしてしまう。

そして、この場面で、観ている私たちは、政岡が、若君を大名らしく厳しくも暖かくしつけ、我が子は武士の子として乳母子としての立場を弁えるようしつけ、さらには若君を狙う曲者から孤立無援で守り通すという大変な重責を全うしているということを知る。また、そのために若君と千松を子供としては過酷な状況に追い込んでいることに対する一人の母親としての心の痛みを知る。

ところで、伊達騒動を描くのであれば、主人公は、鶴喜代君の乳母という立場の政岡ではなく、もっと直接的に、たとえば義綱公自身や鶴喜代君、または、弥生狂言ということであれば、鶴喜代君の母親となる北の方を主人公とすることも出来たと思うのだが、敢えて若君の乳母という立場の人をこの一連の段の主人公に選んだということは、どういうことなのだろう?おそらく、当時の芝居に対する認識では、時代物の王道は、「主人公が主君に対する忠義の犠牲となる(特に親子の絆を犠牲にする)」という形だとする考えがあったのだろう。だから、政岡の職業である乳母のような、主君に仕える立場の人であり、主君の乳母子となる政岡の子も事件に巻き込まれ、親子の絆を犠牲とするという筋の展開が選ばれたのだろう。他の狂言を考えてみても、三大名作とを始めとする主だった時代物の狂言では、広い意味で、その原則に則っているように思われる。けれども一方で、たとえば、近松半二等の『近江源氏先陣館』の「盛綱陣屋の段」などは、主人公の盛綱が、敵方になってしまった弟・高綱の子である小四郎の命を賭けた父への忠孝に感じ入って、高綱の偽首の首実検で主君に対して嘘の証言をするという話で、一見、典型的な時代物のように思われるのに、この時代物の王道を一捻りした構成になっているのが興味深い。しかも、嘘をついてしまったからと切腹しようとする盛綱に和田兵衛が、「今後、高綱が出てきた時に切腹すれば忠義も立つし、義理も全うできるじゃない」と慰めるというオマケ付き。ここまで来ると、もう、浄瑠璃における「忠義」という言葉の定義が変化してしまっていると言ってもいい気がする。少なくとも、並木宗輔はこういう筋の話は書かないだろうなと思う。半二の時代の観客は、宗輔の時代の観客と考え方も昔とは変わってしまったのかもしれない。

話を先代萩に戻すと、鶴喜代君と千松がおにぎりをほうばっているところに鎌倉幕府の頼朝の名代として、梶原景時の奥方、栄御前が到着したという知らせがある。政岡は千松に「常々母が云ひし事、必ず忘れまいぞや」と念を押す。私達は既に千松の運命を知っているので、この詞に、「寺入りの段」でのお千代と小太郎との別れが今生の別れとなってしまうのを観る時と同じように、胸が締め付けられる思いがする。


政岡忠義の段

登場した栄御前は文雀師匠だった。文雀師匠の人形を拝見するのは、私は去年9月 公演の「傾城阿波の鳴門」の「順礼歌の段」のお弓以来で、久々に拝見できて、胸がいっっぱいになってしまった。そして文楽の栄御前は歌舞伎の栄御前とは全然違うのだった。歌舞伎では、割に長老級の役者さんがされることが多い役で、老けた女の人の役だと思っていたが、文楽では衣装こそ変わらないものの、大変若い、娘といっていいくらいの印象の人なのだ。文雀師匠の栄御前は、例えていえば、「この世のものは全て自分の思い通りに出来ると信じ込んでいる、わがまま一杯のお金持ちのお嬢様」という感じの人だ。ちょっと目のつり上がった顔立ちの栄御前が、颯爽と金欄の打掛けの褄をとって歩く姿は、他を圧倒するような華がある。先ほどの御殿の段での品がありつつも、慎ましやかな場面の後、栄御前が登場すると、呂勢さんの語りと清治師匠の三味線も相まって、舞台が一気に時代物の格と艶やかさを備えるという感じだった。

栄御前は、頼朝の上使として夫梶原平三景時の名代として、鶴喜代の病気を見舞う頼朝からの心付けの御菓子を持参したという。そしてその持参した御菓子は、実は毒入りの御菓子なのだ。何故、梶原景時がわざわざ伊達藩の御家騒動に首を突っ込むのだろうと思うが、この物語の中では、梶原景時は、錦戸刑部という御家騒動の黒幕の一人で、足利義綱公の叔父ながら別腹ゆえ家老職に甘んじている人の内縁に当たるということになっているらしい。また、八汐の夫は、刑部の一党の出頭(要職)だというから、そのために、栄御前と八汐は通じているのだろう。 

御菓子に近寄る鶴喜代君に対して、政岡は「ご病気のお身なればお毒になつたらなんとなさるゝ」と制する。その政岡に対して八汐は言葉詰めに追い込んで、鶴喜代君に御菓子を食べさせようとする。そこに、政岡の窮地を察した千松が「その菓子欲しい」と走り来て御菓子を口にする。たちまち毒に当たって苦しみ、菓子折りを蹴散らかす千松を、悪事が露見することを恐れた八汐が咄差に千松に懐剣を突っ込む。この場面は、大変残忍な場面で、人形とはいえ、私にはちょっと直視できなかった。実は、典薬の未亡人、小巻が、八汐等に殺された典薬の夫の仇をとるため、わざと、まことしやかに、「政岡が御家乗っ取りを企み、千松と鶴喜代君を取り替えている」という話を伝えていたのだ。そのために、八汐は、この機に乗じて、千松をいたぶって政岡の反応を見ようとして残忍なことをするのだと思うが、懐剣の刃を千松の頭の上でぶらぶらさせて落とそうとしたりして(よく見ていなかったのでちょっと定かではないけど)、明らかに歌舞伎の同じ場面よりも残忍だし、同じ浄瑠璃の中でも、中将姫の雪責めの話よりも残酷といっていいのではないだろうか(中将姫はかろうじて死なないし)。

しかし、それでも政岡は、鶴千代君を自分の部屋に入れ、戸口に立って若君を守ったまま、「お上へ対して慮外せし千松、ご成敗はお家の為」と、世にもまれな烈女の鑑の如き毅然とした態度で言い放つ。

栄御前は、その政岡の表情をじっと覗き込んでいたが、合点が行ったという顔つきで、八汐の行為を誉め、「政岡に自ら言い聞かすことがある」というと、人払いをして政岡と二人きりになる。栄御前は、政岡の顔色一つ変えない様子を見て鶴喜代君と千松を取り替え子にしたと思い込み、政岡に一味の悪巧みを明かして、悠然と去っていく。

栄御前が去ると、政岡は堪らずに千松の亡骸に縋り付き、泣き崩れ、千松を失ってしまった悲しみに慟哭する。涙無くしては観ることが出来ない場面だ。もし現実世界なら、自分の目の前で、子供をあのように残忍な方法で殺されたのに、表情一つ変えずにいられる人がいたとしたら、その人は多分、精神的にどこかおかしい人で、千松と二人だけになっても涙など流さないかもしれない。けれども、この浄瑠璃では、政岡は、自分の子供が目の前で残忍なやり方で殺されるという非人間的な究極の状況下で、表情一つ変えないという、類まれな意志の強靭さと忠義を持つ烈女であることを示した上で、千松と二人きりになると、今度は一人の母に戻って、忠義の為には普通の親とは逆に子供に犠牲になれと教えなければならず、そのために子供を亡くしてしまった、その悲痛な心情を表に出して悶え嘆く。非現実的な心理描写ではあるけれども、その政岡を観ることで、いかにその犠牲が大きいものだったかということを私達は知り、むしろ、政岡に感情移入してしまう。

その政岡の様子を伺っていた八汐は、政岡に挑みかかろうとするが、むしろ千松の仇をとろうとする政岡に懐剣で刺されてしまう。


床下の段

時を同じくして御殿の縁の下で物音が聞こえる。政岡の夫、松ヶ枝節之助が身を隠して鶴千代君を守っていたのだが(ご苦労なことです)、そこに人間大の大ネズミが現れる。節之助が大ネズミを退治しようとすると、実は、この大ネズミは貝田勘解由、歌舞伎でいえば仁木弾正だった。勘解由は、忍術を使うと、何と、煙に乗ってせり上がるのだ。一瞬、「煙に乗ってせり上がるって、どんだけ高床な御殿なの?」という考えが頭をよぎったが、歌舞伎を越えるケレン味一杯の演出の前には、そんなことを言うのは野暮なことだと、急いでその考えを打ち消した。


床は、特に、御殿の段の津駒さん・寛治師匠、政岡忠義の段の呂勢さん・清治師匠と、先代萩を聴くならこの方々で聴きたいと思わせてくれるような方々で、一度しか聴けなかったのが本当に残念。人形は、和生さんの政岡は思った通り強い意志の持ち主で、さらに文雀師匠の栄御前との共演が、ファンとしてはとても嬉しかったのでした。ああ、この床と人形の組み合わせで、またやって欲しい…。


新版歌祭文 野崎村の段

住師匠が切の後半を語ったのだが、聴いていて胸が打たれた。座談会でのお話を聞いたり、インタビュー記事を読んだりする限り、大変芸に厳しい方のようだから、きっと今のご自分の出来について、非常に歯がゆい思いをされているに違いない。それでも、休演されたりせず、敢えて舞台に出演されるという、精神的に厳しい状況に身を置く勇気と姿勢に感動してしまった。どうか一日も早い回復をお祈りしています。

一方、簑助師匠のお染も印象的だった。前に、おみっちゃんを観た時も衝撃的だったけど、このお染も、可憐で素晴らしかった。私は今まで、イマイチ何故、久松はおみっちゃんを差し置いてお染のことを好きなのかよく分からなかったけど、このお染なら好きになってしまっても致し方なしだ。この物語はお染久松物の中の一段なのだ、ということを改めて感じさせられた。

それから、今まで気が付かなかったけど、おみっちゃんが白無垢を脱いで五条袈裟を掛けた時の「思ひ切つたる目の中に浮む涙は水晶の、玉より清き貞心に」という詞章は、すごく興味深い。というのも、涙の粒は歌詞(うたことば)では、通常、白玉(真珠)や露に喩えられるのに、ここでは「水晶の玉より清」いものと表現されている(この詞は、和歌的修辞で、涙と貞心の両方を修飾しているのだと思う)。涙を喩えるのに水晶を持ってくるというのは、当時としては相当新しい表現だったのではないだろうか。また最後の「駕籠に比翼を引き分くる心々ぞ世なりけり」というところの、「比翼が引き分かれる」という表現も、珍しいように思う。こうやってみると、浄瑠璃と言えば何もかも一緒くたに古いものと思ってしまうけど、初期の近松門左衛門の頃から、近松半二の時代までの間に、相当、表現は変わっているように感じる。門左衛門の詞章には、古浄瑠璃謡曲と地続きという感覚が確かにあるけど、半二の作品には、そういう感覚は全くない。江戸時代のたった百年の間に、人々の言葉に対する感覚が相当変わってしまったんだなと思わされて、面白い。


釣女

狂言を松羽目物に移したもの。まず常磐津舞踊として明治4年(1901)に歌舞伎で初演され、後に文楽で昭和十一年(1936)に初代鶴澤道八の作曲で初演とパンフレットにある。ストーリーは大名が釣り上げる美女の数など細かい違いもあるが大筋で踏襲している。しかし、黙阿弥が作詞したという詞章は、細部が全体にわたって狂言とはかなり違っているだけでなく、本行との関連から、大変興味深い部分がある。

まず、冒頭に近い部分で、「名に大蔵や鷺流の、姿を写す釣女」というのがあるが、ここに挙げられている二つの流儀のうち、鷺流は、江戸時代には盛んであったけれども大正時代に廃絶してしまって無いものだ。つまり、文楽で初演された時には既に鷺流は無かったのだけど、詞章として、そのまま残っているのが白い。鷺流は、歌舞伎役者と接近して松羽目物等に影響を与えたというから(またそのことが他流の怒りを買って、返って流儀の没落に貢献してしまった)、鷺流の薫陶を受けた人から何らかの影響を受けている作品なのかも。

また、太郎冠者が醜女のおふくちゃんを釣り上げたことを知らずに「夫婦になるならば春は花見夏は涼み、秋は月見の酒盛りに、冬は雪見のちんちん鴨、(中略)かならずそもじは変るまいな」と語るところも気になる。花、月、雪という、いわゆる雪月花が詠み込まれているのだけど、これが雪月花が逆の順で出現する。先日、観世能楽堂能楽入門講座の「山姥」を聴講した際(これがまた、無茶苦茶面白かった)、お家元の観世清和師が、「山姥」の「雪月花」の小書についてコメントされたが、キリの謡の中で、雪月花のモチーフが、花見、月見、雪見と逆の順序で現れるという話をされていたことを思い出した。ひょっとして、ここで「山姥」の詞章を連想させる雪月花を引くことで、「山の神」(=山姥は山の神であるが、「山の神」は奥さんの異称でもある)に、おふくちゃんを釣り上げてしまったことを、それとなくほのめかしているのかもしれないし…単なる深読みかもしれない。