国立文楽劇場 源太夫を偲ぶ会

大阪まで行った甲斐のある、充実した会でした。
太夫師匠もきっと天国で満足されたのではと思います。


対談 九世 竹本源太夫を偲んで 鶴澤藤蔵 亀岡典子

古典芸能ファンにはお馴染みの産経新聞の亀岡典子さんの進行。藤蔵さんの解説で、源太夫師匠の昔の写真や映像、音源が紹介されました。

生まれたばかりの写真や学生時代の写真、文楽に入門した当初の写真などが最初に紹介されます。文楽に入門したばかりの頃のお写真には、まだ若々しい源太夫師匠に、住師匠、寛治師匠、簑助師匠の4名が仲良く並んだ写真がありました。


そしてまず最初の音源は、昭和35年(1960)、当時28才の織の太夫時代の妹背山婦女庭訓の妹山背山の段でした。これは妹山が源太夫師匠、背山が当時30代の今の住師匠という組み合わせです。さすがに声が若いものの、すでに完成された形になっていて、驚きました。実は、2010年4月に文楽劇場であった妹背山の通しでは、妹山背山の段がやはり背山の大判事が住師匠、妹山の当時の綱師匠でした。これはあまりに感動的だったので、ものすごく印象に残っています。この時はその当時から50年後だったそうで、源太夫師匠も住師匠もそれぞれ「最後のお役かも」ということで、千穐楽ではお互い握手を交わされたということでした。そんなエピソードがあったのですね。

その2010年の妹山背山の段の映像も流れました。2010年の方はおそらく源太夫師匠も住師匠も最盛期は過ぎていたのかもしれませんが、長年の磨き上げた技巧とその人生経験を反映した声に、感銘を受けました。そして、文雀師匠の定高も懐かしかったです。文雀師匠のお人形の腕は、他の人形よりほんの心持ち長めで、柳の枝ようにしなやかに柔らかく曲がり、ふわっと包み込むように何かをつかみます。そして、感情が高ぶったときの人形の前のめりの姿勢。観ていたら、ちょっと胸が締め付けられました。定高は和生さんの方がニンだとは思いますが、文雀師匠の定高にしては母の愛情があふれすぎている定高は、本当に良かったです。


それから渋谷ジャンジャンという、大阪での知名度はよく分からないけど東京では超有名な、およそ義太夫節とは縁のなさそうなライブハウスで行われた義太夫版「走れメロス」の音源。渋谷ジャンジャンみたいなところでライブもされていたんですね。観客層はどんな感じだったんでしょうか。今の時代は、文楽ファン以外の観客を呼び込むには、別のジャンルの人と組まないと、公演の場所を変えただけではなかなかのは難しいかも。しかし往々にして古典芸能と別ジャンルとのコラボというものは、単純なコラボや迎合的なものなど、イマイチなものが多く、なかなか見たい気が起こらないのが困った点です。とはいえ、観客を増やすという意味では、今後も何らかの取り組みは必要なのかもしれません。

なお、「走れメロス」に関しては、以前、先代呂太夫さんの追善の会で先代呂太夫バージョンを聴いた記憶があります。これは三味線無しでパーカッションや笛が伴奏となっていたバージョンだったので、源太夫師匠のものを更に進化させたものだったのかも。先代呂太夫さんも、清治師匠と共に、ラフォーレ原宿で原宿文楽という催し物をされたりして、こういった新しい分野での取り組みをされていたということで、源太夫師匠の取り組みを継承された方だったのでしょうね。私のように活躍されていた当時を知らない人間にとっても、亡くなってしまって本当に惜しい方です。


また源太夫師匠は若い頃、歌舞伎役者になりたかったほどお芝居がお好きだったということで、天地会で歌舞伎の武部源蔵をされた時の超レア映像が流されました。何故、源太夫師匠は歌舞伎役者になるのを諦められたかというと、お父様(先代藤蔵)に相談したところ、「それなら芸養子に行かなければならないな」と言われ、それもどうかと思い、思い留まられたのだそうです。マジ、思い留まって下さって、よかったです。それでもお芝居がお好きで「ヤマトタケル」などの縁で猿翁とも親しくされていたとか。パンフレットにも猿翁や玉三郎の言葉が掲載されていました。

太夫師匠の武部源蔵は、歌舞伎役者顔負けの源蔵でした。雰囲気だけで言えば、歌六丈をこってりとした上方役者にした感じでしょうか。首実検と松王丸が帰った後の場面だったのですが、細かいところまで練られた芝居で、もちろん台詞も巧みです。また間が良いので、観ていて気持ちが良いお芝居です。それから手の演技がとても細かいのも印象に残ります。例えば、松王丸に首桶を渡した後に末王丸に詰め寄る時に松王丸に差し出したキッとした手先や、玄蕃と松王丸が帰った後におろおろしてお茶を飲む手も震えるところなど。藤蔵さんもそのことを指摘されていて、源太夫・藤蔵ダブル襲名の時の舞台写真の三つ指を付いた時の源太夫師匠の手先の綺麗さや床本をめくる時の指先の美しさなどについて語られていました。確かに、私も床本をめくる所作に見とれた覚えがあります。

ほかにも猿翁十種の黒塚や関の扉の関兵衛など、色々されたとのお話でした。


もうひとつ面白かった映像は、『娘景清八嶋日記』の「日向嶋の段」の冒頭の謡掛カリの部分。源太夫師匠は観世栄夫に謡を習っていたそうです。映像の綱太夫時代の源太夫師匠は「松門独り閉ぢて」で始まる謡掛カリを、謡として聴いても素晴らしかったです。藤蔵さんの解説によれば、謡は感情を押さえて謡うもので謡掛カリの部分も感情を押さえて語るが、源太夫師匠は「肌(はだえ)はぎやう骨と衰えたり」の「ぎやう骨」のところだけ義太夫の表現をされていたのだそうです。実際、映像では、ここだけ鬼気迫る表現で、一瞬にして、みすぼらしい小屋に住まう、頬の痩け、厳しい表情をした景清の顔が目に浮かびます。

太夫師匠は近松を得意とすると言われていましたが、実際にはこういった時代物もお好きだったけれども、なかなかお役が回ってこなかったとか。


沢山音源を聴いているうち、そういえば、私が文楽を見始めた頃は、綱太夫の演目を観に行く日はいつもうきうきと国立劇場に行き、帰りは浄瑠璃に酔ったように、うっとりと、ふわふわした幸せな気分で帰っていたことを思い出しました。


休憩を挟んで、素浄瑠璃の菊畑と五条橋の演奏です。


鬼一法眼三略

菊畑

藤蔵さんによれば、菊畑は以前、源太夫師匠と清治師匠が演奏されていたとき、清治師匠が舞台で急に体調を崩され、そのまま床の脇の扉から退場された時に、代演された曲なのだとか。普通は清友さんと清介さんがいるのでそれらの方が代演するのが順当なのだけど、そのときは偶然いらっしゃらず、故八介さんと藤蔵さんだけが床の裏にいて、八介さんに「君がやりなさい、君のお父さんだろう」と言われて、そう言われればそうだということになり、急いで清治師匠の方衣と袴を履いて舞台にあがったのだとか。しかし、ご本人曰く、しっちゃかめっちゃかで、なんとかつじつまを合わせるという形の演奏となってしまったのだそう。それで、源太夫師匠から大変なおしかりを受けるかと思いきや、「ご苦労」とねぎらわれたのだとか。それでずっとリベンジしたいと思っておられたのだそうです。また西風のものがやってみたかったとも。

さらに、菊畑は初演の太夫は政太夫ということが残っているが、三味線は誰だったか記録は残っていないけれども、大西藤蔵ではないかと考察されていました。


聴いてみると、三味線がとても華やかで旋律も緩急も変化に富んでいて、非常に聴き応えがあります。物語の流れはよくあるパターンにそったものですが、台詞劇としても面白く、名作と言えるのではないでしょうか。あまり舞台にかからないのがもったいないくらいです。

掛け合いというのも趣向として面白かったです。事前に想像していた範囲では、鬼一法眼は津駒さんで決まりだけど、それ以外の虎蔵(牛若丸)、知恵内(鬼三太)、皆鶴姫を千歳さんと呂勢さんで、どう振り分けるのか、非常に興味あるところでした。

幕があがると呂勢さんが紫地に白の小紋(柄はよく分からず)の肩衣に赤い見台、千歳さんが青の肩衣に黒の見台だったので、呂勢さんが皆鶴姫かと思いきや、青の肩衣の忠臣蔵の登場人物みたいな格好の千歳さんが、いきなりしおらしく皆鶴姫をされたので焦りました。結局、千歳さんが知恵内と皆鶴姫、呂勢さんが虎蔵と湛海という配役でした。

それぞれに面白かったのですが、特に呂勢さんと藤蔵さんの絡みの部分は、まるで気迫のパスを送りドリブルシュートするような息の合ったスピード感あふれる演奏で、良かったです。このお二人でこの手の疾走感のある曲をもっと聴きたい気がしました。


五条橋

五条の橋は、藤蔵さんのご子息が源太夫師匠に習われ、実際に披露された曲なのだそう。源太夫師匠は、お孫さんを太夫にしたかったのだそう。

五条橋は本公演でも単発の公演でもよくかかっていて、若干食傷気味ですが、津駒さん、呂勢さん、藤蔵さん、清志觔さん、清馗さんといった豪華メンバーが揃うとこんなにも面白い曲になるのだ、と感動でした。


藤蔵さんのお父様を偲ぶお気持ち、ご子息への思いが伝わる素敵な会でした。