国立劇場 2月文楽公演 第一部(その3)

<第一部>11時開演
花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)
    万才・海女・関寺小町・鷺娘   

嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)
   花菱屋の段
   日向嶋の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3159.html

嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)

私はまだ観たことがないけど、お能の「景清」を下敷にして近松の「俊寛」のように翻案したお話。かなり面白かった。「景清」も観てみたい。


花菱屋の段

この段の主人公である景清の娘、糸滝。お能の「景清」では景清の娘は熱田の遊女との間の娘で鎌倉亀が江の谷(やつ)の長に預けた人丸という名前の娘ということになっている。一方の文楽では、熱田の大宮司の娘との間の子ということになっていて、手越の村で乳母に育てられ、遊女屋花菱屋に身売りしてそのお金で日向に流罪となっている父景清を助けだそうとする。それにしても熱田の大宮司の娘って、確か頼朝の母は熱田神宮宮司の娘じゃあなかったっけ…?

それと、手越ってどこなのだろうと調べてみたところ静岡県の安倍川の近くにある宿場だそうだ。この手越宿の長の娘、手越少将は工藤祐経と関係があったという。しかも、びっくりしたのは、「平家物語」の「千手前」やお能の「千手」に出てくる千手前の姉だというのである。

えええと思って「平家物語」(岩波文庫)巻第十の「千手前」を読んでみると、ちゃんと

あれは手ごしの長者がむすめで候を、みめ形、心ざま、優にわりなき者で候とて候とて、この二三年召し使われしが千手の前と候。

と書いてある。そういえば、興福寺を炎上させた罪で鎌倉に連行された平重衡のために、坂東武士としては京で過ごしたことのあるせいで風流を解す工藤祐経が連れてきたのが千手前だったのでした。とにかく、手越は有名な宿場町でその(遊里の)長には美人姉妹の娘がいたのです。

つまり、江戸時代の観客には、「手越宿」といえば平家物語やら謡曲曽我物語等でお馴染みの鎌倉時代の遊里という認識ができていたのかも。それに「千手前」のエピソードを絡めることで、重衡と景清、工藤祐経と花菱屋の長、千手前と景清の娘糸滝を響かせているのかも?…と、そこまで言うのは踏み込みすぎか。

床は千歳大夫と清介さん。千歳大夫も好きなのだし、何と言ってもいつもキリキリ糸巻を巻いている清介さんの鋭角的で攻撃的な三味線がカッコいいのでした。

人形は簑二郎さんの遣った花菱屋女房の「悪婆」の首が能面の般若に似ていて興味深かった。絶対に般若を参考にしたに違いない。しかし花菱屋女房は恐いながらも楽しいキャラ。もうけ役。


日向嶋の段

冒頭は謡曲の「景清」の一節を三味線無しの謡がかりではじめる。謡曲「景清」のシテが登場する際の冒頭の詞章「松門独り閉ぢて、年月を送り、自ら清光を見ざれば、時の移ろふも、弁へず、暗々たる庵室に徒らに眠り、衣寒暖に与へざれば、肌はげう骨と衰えたり」を謡う。

実はここはあまりに重厚な語りなのであまり謡っぽくない。けどこれはきっと文楽の本行へのリスペクトからこーゆーことになっているに違いない。途中でも再度「景清」の謡曲の一節が出てくるのだが(「日向とは日に向ふ。向かひたる名をば呼びもせで」から「腹悪しくよしなき云ひ事たゞ赦し、おはしませ」の部分)、そこはちゃんと謡らしいフシが付いていた(ここでは人形の方も杖を両手で掲げて回ったりして仕舞のような所作をしていた)。

景清は非常に堂々としていてさすが玉女さんはこういう人形がお得意なのでした。一瞬、「むむ?これ、天変斯止嵐后晴?」と思ったが、多分、あの「天変斯止嵐后晴」が景清のキャラを借りたのだ。興味深かったのは、話の最初の方で景清が重盛公の位牌を持って弔っている場面があったこと。景清は「いま日本にて君がため、花一本水一滴、供養仕る者もなく成り果てし、せめて景清は生き残ったる身の本懐」という。最後の一人になっても平家に忠誠を尽くそうというのだ。この場面は後に大きな意味を持つ。


そこに糸滝(勘十郎さん)と左治太夫(紋寿さん)が現れる(お能でも景清の娘、人丸には従者がいるらしい)。糸滝は景清を見つけると景清の在り処を尋ねるが、驚いた景清は、最初は盲目の自分は知らないと答える。糸滝がその言葉の調子に築き「名乗つて下され父御前」と詰め寄ると「景清が在り所知らずと云ひしは偽りよ。こゝより奥にさまよひしが、誠は去年、飢え死に。土になりしと知らざるか」と言い放ち、糸滝は伏し転び悶え焦がれつつ嘆く。そして左治太夫と共に亡き跡を尋ねようとさらに奥に入っていく。

そこへ無駄にカッコいい二人連れの里人が通りかかるので、左治が景清の最期の跡を尋ねるとさっきの藁屋の盲目の乞食が景清だという。それで再度藁屋に行くと、景清は藁屋の菅菰を引き破って出てくると、よしなき事を言ったことについて詫びる。そして糸滝が熱田の大宮司の娘との子であるが「憎し悪しでなく、女なれば足手まとひと、二歳の時乳母が娘にくれた」と説明する。お能では「女子なれば何の用に立つべきぞと思ひ。鎌倉亀が江の谷の長に預けおきしが。」となる。文楽ではわざわざ「憎し悪しではなく」という詞を付けているのが興味深い。そして、その後に名文句「親は子に迷はねど、子は親に迷ふたな」と言って景清は糸滝を抱きしめるのだった。

景清が糸滝の今の様子を尋ねると、糸滝は身売りしたとはとても言えず泣き崩れ、左治が代わりに大百姓に嫁入りしたという作り話をする。左治、本当にいい人…。しかし、ここで景清は「景清が娘、土百姓の畠噛(かじ)り、土竜(おごろもち)の女房にはナヽヽヽなぜ仲人したと怒り出す。糸滝は驚くが左治と里人は糸滝を帰らせようとする景清の真意を察し、左治は糸滝を船に乗せて船出する。景清は「今叱りしは皆偽り。人に憎まれ笑はれず、夫婦仲よう長生きせよ。与へし太刀を父と思ひ、肌身も離さず回向せよ。重ねて逢ふは冥土で冥土で。さらば/\」と叫ぶ。ここは本当に感動的なのだが、その後のことを考えるともっと泣けてきてしまう。


と、ここまで謡曲と大まかな流れは軌を一にしてきたが、ここから文楽は大きく方向転換する。左治は実は里人にお金だけでなく文箱を預けている。景清が文箱を開いて見てくれと頼むと里人は文箱を開き、そこに糸滝が父のためにわが身を売って手越の遊君となった身売りの金なのだという書置があるのを見つける。

景清は「ヤレ、その子は売るまじ。左治太夫殿、娘やい、船よなう/\、返せ、戻れ」と叫ぶが既に船影は消え、景清は号泣する。ここの景清は本当に哀れ。娘の立場で考えればなぜ左治はこんなことをしたのだろうと思ってしまうが、やはり左治は景清の立場に立って、想像を絶する悲劇ではあるが、事実を知らせない方がもっと残酷だと考えたのだろうか。

伏し転びて泣き口説く景清を見て里人は衣を改めると、実は!二人の里人は鎌倉方の天野四郎(清五郎さん)と土屋軍内(幸助さん)だったのだった!!さすが、土屋家の人々は皆優しいのだ。土屋三郎はお能の「盛久」でも鎌倉方でありながら平盛久の最大の理解者だったし。

二人は景清に「志を改め頼朝に帰伏せんとは思し召さずや」「さもあらば息女も身を穢さず、鎌倉殿にもさぞ御悦喜。良禽は木を選んで住みは主を選んで仕ふという万世の格言、思ひ当たりたまわずや」と問いかける。普通だったらこのくらいの甘言には動じない景清だと思うのだが、このときは娘の件で動揺していたのか、そのまま鎌倉方の御座船に乗って鎌倉に向かうことになるのだ。ま、まさか本心では寝返れば良かったと後悔してたなんてことはないよね、景清さん?


そしてこの段の最後、大変、印象的な場面がある。景清が船の上で今まで大事にしていた重盛公の位牌を船の上から落としてしまうのである。それが、2月11日に見たときは、放り投げる感じで(!)、かなり衝撃的だった。これ、重盛公だから黙って海の藻屑になってくれるだろうけど、知盛の位牌だったら、「あら不思議や海上を見れば。西国にて亡びし平家の一門。おの/\浮み出でたるぞや。」となって、船弁慶後場が始まっちゃうところだったよ、と思てしまった。が、その後、数回見た限りでは、景清は久々にお酒を飲んだせいか、おこついて位牌を海面に落とすという感じで、思わず自分も身を乗り出して位牌を取り戻そうとして天野殿と土屋殿に留められ、男泣きに泣くと二人も涙するという形で終わるのだった。これなら何とか納得。


床は咲師匠と燕三さん。大迫力でした。