横浜能楽堂特別公演 武悪 石橋

横浜能楽堂特別公演

狂言「武悪」(大蔵流
シテ(主)山本東次郎 アド(太郎冠者)山本則孝 アド(武悪)山本則直

能「石橋 大獅子」(観世流
白獅子:関根祥六、童子&赤獅子:関根祥人、赤獅子:関根祥丸
ワキ(寂昭法師)森常好 アイ(せがれ仙人)山本泰太郎
笛:一噌幸弘、小鼓:大倉源次郎、大鼓:柿原崇志、太鼓:観世元伯
後見:観世恭秀、山階彌右衛門、武田尚浩
地謡観世清和、角寛次朗、関根知孝、高梨良一、浅見重好、上田公威、
 藤波重孝、岡庭祥大
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/prog-2.html#5-23

祖父、父、息子の三代の獅子ということで行ってみました。あー、面白かった!


武悪

普段から始末に負えない武悪(山本則直師)。主人(山本東次郎師)は太郎冠者(山本則孝師)に武悪を手打ちにするように命じる。太郎冠者は、仕方なく武悪を手打ちにしようとするが、いつもとは打って変わって、神妙に手打ちになるのも辞さない武悪にほだされた太郎冠者は、武悪を逃がすことにする。太郎冠者は主人には武悪を手打ちにしたと報告したのだった。主人はその報告を聞くと一安心して太郎冠者を連れて東山に行く。ところが武悪も、この度、命が助かったのは普段から信仰している清水寺のお陰と、清水寺に行き、主人一行とばったりかち合ってしまう。まだ武悪が生きていることに腹を立てた主人であったが、太郎冠者はその場を上手く納める法を思いつき、、、というお話。


前半はまるで笑いの要素がなくて、あまり狂言という感じがしないのであるが、後半は一転して笑えるお話。
山本東次郎師はさすが。一貫して真面目で怒りっぽい性格の主人を演じているのに、それがある時は怖く見え、ある時はこっけいなのだ(武悪を見つけた時に長袴姿で背伸びする様子といったら!)。

武悪は幽霊になる時、武悪の面をしていたのだろうか。茫々の黒頭の下になっていて良く分からなかった。幽霊になるのに白い装束を着てくるのだが、一体いつから幽霊は白い装束を着ると極まったのだろう。義経千本桜の渡海屋の段に白い装束の幽霊が出てくるから、江戸時代に白い装束の幽霊姿が確立していたのは多分確実だけど。

また、太郎冠者が主人に対して「武悪の幽霊を見たのだろう」というと、主人が「そういえばここは鳥辺野だ」というのが、興味深い。今の松原橋は昔の五条橋で、橋を渡った辺りは鳥辺野と呼ばれ、死体を遺棄する場所であったらしい。今の喧騒からは想像も付かないが。この前、清水寺に行ったとき、ふと参道を反れて南の方の山麓に行ってみると、見渡す限りのお墓が密集していた。お墓なので写真には撮らなかったけど、その密集具合は、なかなかシュールな光景だった。鳥辺の名残なんだろうか。歌舞伎の鳥辺山心中の鳥辺山もこの辺りのことを指しているんだろう。

太郎冠者が「せまじきものは、宮仕え」という台詞をいうのを聞いて、へーと思った。これは、菅原伝授手習鑑の源蔵の有名な台詞だから。源蔵の台詞がオリジナルだと思ってたけど、もっと前からあったということなんだろう。

他にも「思へば、思へば」とか、歌舞伎に良く出てくるフレーズもあるし、時代的には江戸時代に近い時代に成立したのかな?


石橋 大獅子

はじめて観たが、とっても面白かった。これを面白いと思わない人はあまりいるまい。
お能では半能で後場のみ演じることが多いらしいが、今回は前場からだった。


前場は、寂昭法師(森常好師)が唐にわたり、清涼山にたどり着くところから始まる。すると、前シテの童子(関根祥人師)が出てきて、その橋の由来について語る。

何故、童子が出てくるのか興味深い。「田村」の前シテが清水寺に仕える童子なように、神仏に仕える雑役の者として出てくるのだろうか。網野善彦氏によれば、中世においては、神人と呼ばれる神社仏閣に仕える雑役の者は元服して髪を結うことは許されず、長い髪のままの童形であることが求められた。彼等は、神社仏閣および周辺の清掃なども担当した。だから、田村の童子は、子供というよりは、多分、童形の神人なのだ。話が大きく脱線したが、この石橋に出てくる童子も、そういう意味の童子なのだろうと思う。

童子は、もうすぐ文殊菩薩のご来迎の時だといって去っていく。


すると、アイのせがれ仙人(山本泰太郎)が現れる。せがれ仙人って何なのだ。おやじ仙人とせがれ仙人がいて、「今日はおやじが多忙のため、せがれが参りました」という話なのか?と色々想像してみたが、特に何ゆえ「せがれ」なのかは言わなかった気がする。とゆーか、せがれっぽさも無いし。謎です。

せがれ仙人は、居住まいを正すと、さっきも前場で聞かなかったっけ?というような話を、別の言い方でしてくれる。面白かったのは、「石橋は、反橋なのだ」というところ。実は、中国では反橋は一般的で、日本でだけ、何故か、反橋が神社仏閣など、聖なる場所に渡す橋に使われるらしい。まあ、中国だから反橋で、何ら問題ないし、親切心で日本人の寂昭法師に分かり易く解説してくれたのかもしれない。

それから、石の橋というのは昔は日本にはそんなになかったらしい。だから、今みたいに鉄筋+コンクリートの橋が主流だ実感しにくいけど、昔の人にとって、石の橋というのは、ひょっとすると、それだけで、珍しいもののように感じたのかも。万葉集で石橋(いわはし)というのが出てくるけれども、それは、庭の池の飛び石のように石や岩が上手い具合に渡り易いように配置されているものをいうらしい。これも、石を組んで作った橋ではないのである。


せがれ仙人の話が終わるとお囃子が始まり後場になるのであるが、これが素敵!歌舞伎でも連獅子、鏡獅子等の石橋物というジャンルがあるけど、やっぱり本歌のお能は、一枚上手。迫力があり、大音量で激しいリズムと合いの手の囃子方。ちょっと普通の囃子とは違う。獅子舞の影響を残しているんだろう。地謡も大音量で、キビキビと動く獅子達。子獅子(関根祥丸くん)は面をせず、望月みたいな顔を覆う赤い布をして目だけをギロっと出していた。関根祥丸くんのプロフィールを見れば、高校生とか。すごい。高校生で、もうプロとして全く遜色無い演じ振りなのだ。歌舞伎界だって、そこまで出来る(た)高校生は、あまり居ない気がする。その祥丸くんと父の祥人師の勢いのある相舞に続いて、祖父の祥六師も真打登場とばかりに橋掛リに現れて、見所の興奮も最高潮に達する。

さらに、歌舞伎を観ている私としては、毛振りをひそかに期待していたのですが、さすがにお能ではやりませんでした。毛の長さは大丈夫そうなんだけど、あの狭い能舞台で毛振りやったら相当迷惑か。それに、考えてみると毛振りというのは、非常に歌舞伎的な発想のものかもしれない。

という訳で、ああ、全てのものには終わりがある、飽き足らないうちに終わってしまい、舞台上には、見事な紅白の牡丹ばかりが残りましたとさ。ところで、結局、獅子は来たけど文殊菩薩はどこ行ったのじゃ!