国立能楽堂 企画公演 松浦佐用姫

2012年2月16日(木) 午後6時30分(午後8時45分終演予定)

国立劇場開場45周年記念
◎−観世文庫創立20周年記念−世阿弥自筆本による能
狂言 御茶の水(おちゃのみず) 山本則重(大蔵流
能   松浦佐用姫(まつらさよひめ) 大槻文藏(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2011/2026.html

「松浦佐用姫」は昭和六十年(1985)に大槻文蔵師が世阿弥自筆本に忠実な形で復曲し、平成十二年(2000)に観世流宗家の観世清和師によって現行曲として正式な演目に加えられた曲。「井筒」や「松風」を彷彿とさせる、胸の締め付けラられるような悲恋の物語でした。大槻文蔵師の美しくドラマティックな松浦佐用姫と地頭・観世清和師の率いるダイナミックで情感豊かな地謡に、本当に、久々に素晴らしい演能を観て心が動かされ、しみじみと余韻に浸りながら帰ったのでした。


御茶ノ水

都合により拝見できず。残念無念。


浦佐用姫 観世流 大槻文蔵

「松浦佐用姫」の伝説は多くの古典の中に見つけることができるが、早くは『万葉集』巻五、854の歌の序、《松浦河に遊ぶの序》から始まる一連の歌や、『肥前風土記』の「松浦の郡」の《鏡の渡》や《褶振(ひれふり)の峰》等に見え、世阿弥もここから多くのエピソードを採っているようだ。

はじめに、ワキの行脚の僧が博多の浦に渡ったついでに名所の松浦潟を訪れるところから始まる。僧が冬の松浦潟に着くと、雪が降り始める。海山をかけて降る雪の中に、僧は釣人を見つけ、松浦潟について詳しく尋ねようと思う。

「釣人」というので、「阿漕」のシテのような前垂れを付けた老人を想像してしまったが、幕から現れたのは、「隅田川」のシテのような、雪持ち笠に浅葱の水衣、棹を持った若い女性だった。そうだ、『万葉集』の《松浦河に遊ぶの序》には、鮎を釣る若い乙女達が出てくる。松浦川玉島川)では、その昔、新羅を征伐しようとした気長足姫(神功皇后)が鮎釣りをしたという伝説から、この川では乙女のみが釣りをすることになっているのだという。そのようなことから、この前シテの里女は、釣人の姿をしているのだろう。

里女は僧に問われるままに、松浦川や鏡の宮を教え、領巾山(ひれふるやま)では、そここそが、松浦佐用姫が狭手彦の舟影を見送って伏しまろびて領巾を振った山だと、山上憶良の「海原の沖行く船を帰れとか領布振らしけむ松浦佐用姫」(『万葉集』巻五 874)という歌を引きながら、物語る。

里女の話に興味を覚えた僧は、里女に佐用姫狭手彦の謂はれを詳しく語って欲しいと頼む。里女は、<クリ><サシ><クセ>で、佐用姫の物語を語る。上代の頃、狭手彦という遣唐使が遣わされ松浦潟の旅宿でその国の采女であった佐用姫と共寝したが、ある日、佐用姫が気がつくと狭手彦を乗せた唐土船は出発しており、領巾山で領巾を振ったことから、佐用姫は松浦姫と呼ばれるようになったのだという。

さらに僧が、鏡の宮の謂れを尋ねると、里女はそれは狭手彦の置き形見でご神体になったものだという。ここまで語ると、里女は、「妾に授衣の望みあり。その御袈裟を授け賜へよ」という。ここのところは興味深い。何故なら、「三輪」でも同じように、前シテの里女が「わらわに御衣を一衣(いちえ)賜はり候へ」というからだ。

実は、『肥前風土記』の松浦佐用姫伝説では、弟日姫子(おとひひめこ、松浦佐用姫と同一視されている)が狭手彦と分かれて五日後、夜毎に佐用姫の元に狭手彦に似た人が現れ共寝し、朝早くに帰ってしまうということがあり、密かにその人の裾に続麻(うみを)の麻(を)を付けて跡をたどると、峰の沼に住んでいた蛇を見つけたという三輪の苧環伝説そっくりの説話が収められている。おそらく、両方の曲で麻の糸が出てくることを意識して、後シテが出るきっかけが同じ「授衣」になっているのではないだろうかという気がする。

僧は最初から何か訳のありそうな人だと思っていましたというと、里女に袈裟を授ける。里女はお礼に、狭手彦の形見の鏡をお見せしましょう、というと、ただならぬ様子となり、雲隠れしてしまい、中入りとなる。


狂言では、所の者が、松浦佐用姫伝説のことを詳しく語る。

それを聞いた僧は、最初から不思議に思っていたのだ、とひとりごつと、その夜は松浦潟に伏して佐用姫の幽霊が現れるのを待つ。


雪も止み、澄み切った夜空に出た月を松浦川の水が映す。そこに、狩衣に大口袴という出立で、鏡を持った松浦佐用姫の霊が現れる。松浦佐用姫の霊の面は観世宗家に伝わる「小夜姫」という、小面に似ているが苦悩を秘めた表情のもの。このように佐用姫の名前を冠した面があることからも、佐用姫のお能がそれなりに大事にされてきたことを示すのかもしれない。囃子は後場を通して、鬘物らしく柔らかい響きだった。

佐用姫は正前で「西に山なき有明の松浦の朝日、鏡の面(おもて)、向かふ光も心雲らば、我が影ながら恥ずかしや」といいながら、鏡を覗き込む。すると、その鏡の中には佐用姫の姿ではなく、男体の冠正しき姿が映っていたのだった。その佐用姫の姿は、「井筒」の後シテが井戸を覗き込様子を彷彿とさせる。「井筒」の井戸に映る自分の姿を見ながら業平のことを思い出す紀有常女の姿は「井筒」の最も美しい場面のひとつだ。ここの場面について、『伊勢物語』自体には井戸を覗き込んで業平を懐かしむという場面はないので、世阿弥はどうやってこのような場面を思いついたのだろう、と不思議に思っていた。「松浦佐用姫」と「井筒」はのどちらが先に出来たかはよく分からないが、詞章の洗練度でいえば、「井筒」の方に軍配が上がる。そういう意味では、世阿弥は「松浦佐用姫」のこの場面を、「井筒」に採り入れ、より洗練された形で表現し直したと想像することもできそうだ。

佐用姫は僧に鏡を渡し、物着をすると裳着胴姿となる。<立廻り>で橋掛リの三ノ松のところまで行くと、佐用姫は感極まり、「なうその船しばし、その船しばし止めよ止めよ」と白絹の長い領巾を大きく振って、ひれ伏す。この時の文蔵師の佐用姫からは狭手彦を恋い慕い苦悩があふれるようで、心を打つものがあった。「そのひれ伏す姿は、げにも領巾振る、山なるべし」とあるのは、『曽我物語』等にある、佐用姫が石になるという伝説に触れた詞章だろうか。最後は、狭手彦を焦がれるあまり、佐用姫は波間に身を投げると、世も白々と明け、僧の夢も覚めるのだった。


この「松浦佐用姫」を観て、「井筒」の他にもうひとつ思い出したのは、「松風」だ。「松風」の物語の種となっているのは、在原行平の、

立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む

という歌だ。

今回、佐用姫の物語について色々と考えているうちに、この「まつとし聞かば」の歌は佐用姫伝説を響かせているのかもしれないという気がした。というのも、『万葉集』巻五の松浦佐用姫に関する一連の詞書と歌は、大伴旅人太宰府から京に戻る直前に松浦潟を逍遥した際に旅人達に披露された物語と考えられるからだ。狭手彦は大伴狭手彦と言い、大伴金村の子で、宣化天皇の命を受けて任那のを救援した大伴の連(むらじ)の英雄だ。恐らく、肥前の人々が、京に戻る旅人に「また肥前に戻って下さるのをお待ちしています」という、餞(はなむけ)の意味を込めて、で大伴の連にまつわる土地の物語を披露し、その縁の地に招待したのではないだろうか。

そして、時代が下って在原行平は、任地の因幡の国から京に帰任する際、この『万葉集』にある大伴旅人の松浦潟逍遥と松浦佐用姫の物語を思い出して、「まつとし聞かば今帰り来む」と詠ったのかもしれない。さらに、「松風」を作った観阿弥か改訂した世阿弥もそのように考えて、「松風」の前シテを『万葉集』の「松浦佐用姫」の物語に出てくる海人として、後場で松風が佐用姫のように行平を恋焦がれるという流れにした…というのであれば、面白いと思うのだけど、本当のところがどうなのかは、分からない。