吉野川の首切れ馬


先日、図書館でふと手にとった歴博のブックレットの1月号は特集が「怪異・妖怪文化」。私はそーゆー気持ち悪いもの全般が大の苦手なので、本来はそんなのはそのまま速攻で書架に戻すところだ。ところが、その巻頭に民俗学者小松和彦氏と歴博の人の対談記事があったから、小松氏の本がわりに好きな私は、仕方無く、いやいやながら眺めていた。すると、その次の記事に、《吉野川の首切れ馬》の伝説に関する記事があった。

吉野川」に「首切」とくれば、これはもう、『妹背山婦女庭訓』の妹山背山の段の雛鳥じゃないの、と、妄想派の私の頭の上にエクスクラメーション・マークが点灯してしまった。妹山背山の段では敵対する両家の娘、雛鳥が首を切って自害し、その娘の首を母親の定高が吉野川に流して対岸の久我之助に「嫁入り」させる。いろんな浄瑠璃の中に自害する女性が出てくるが、リアルに娘の切った首が出てくることは、私の乏しい観劇歴では、この話以外にあまり記憶にない気がする。それで、何でこんなグロテスクな話にしたのだろうと、前から疑問だった(観劇している時は感動して忘れてるが)。

ひょっとすると、雛鳥の首切はこの「首切れ馬」と何か関係あるんじゃないか等と思い、ちょっとわくわくしながら記事を読んでみる。すると、残念なことに、この伝説の「吉野川」というのは、大和ではなく阿波の「吉野川」なのだという。「妹山背山の段」の舞台となる場所とは違うところのお話なのだ。とはいえ、妄想派の私としては、その程度のことは無問題。何であれ、『妹背山』の作者である近松半二がこの話からヒントを得た「可能性が否定出来ない」要素さえ見つかれば、大いに満足なのだ。というわけで、とりあえず、この記事を読んでみることにする。

この記事(佐々木高弘氏「風土と妖怪――徳島県吉野川流域の風土と首切れ馬」)によれば、なんでも、阿波の吉野川の流域には、首の切れて無くなった馬が、夜中、流域の藍作地帯を疾走するのだという。人々がその首切れ馬に遭ったという遭遇譚がいくつも残っているのだという。そして、その首切れ馬は吉野川の北岸の地域から吉野川を渡って南岸に走って行くという。

阿波という地名から、そうだ、阿波には人形浄瑠璃があるではないか、と思いついた。『妹背山』を書くにあたって吉野川に関するエピソードを探していたであろう半二も、そういう阿波の人形芝居関係者から人達から首切り馬の話を聞いた可能性だってあったのではないだろうか。…というためには、そもそも首切り馬の伝説が半二の時代には既に流布していなければならないということになるが、その点はどうだろう?

まず、首切れ馬の伝説が出来る下地としてこの記事で挙げられているのが、吉野川流域の藍作の経営方式がもたらした風土だ。江戸時代、この地域では藍作を大藍師という資本を持ち藍作の大規模を行う農家と、小作をする零細農家に分かれ、貧富の差が激しくなっていった。吉野川は頻繁に氾濫し、洪水を引き起こし、そのような洪水の犠牲になるのは、特に南岸の小作地だった。首切れ馬が走るのは、大藍師がそのような小規模藍作人の土地を集約し始めた時期に一致し、首切れ馬はまるで土地の境界線を教えるように、区画の境界を走るのだという。インターネットで調べると、どうも阿波の大藍師と小作人への分化は18世紀半ばには、かなり進んでいたようだ。一方、『妹背山』の初演は明和8年(1771)。その当時には、ひょっとすると、既に首切り馬の伝説は生まれていて、口承伝承というよりは、まだ生々しい巷語として、その土地の人々の間で語られていたとしたっておかしくない。

…と、とりあえず、『妹背山』と「首切れ馬」の関連性をこじつける余地があることが確認できて、満足。本当は図書館にでも行って、もっと色々調べてみたくもあるけれども、今はなかなかそのような時間がとれず、残念。