出光美術館 源氏絵と伊勢絵

2013年4月6日(土)〜5月19日(日)
土佐光吉没後400年記念 源氏絵と伊勢絵 ―描かれた恋物語
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/index.html

1. 貴公子の肖像 ー 光源氏在原業平

2. 在原業平岩佐又兵衛 江戸時代 一幅 出光美術館

岩佐又兵衛というと癖のある細密な線に極彩色という印象が強いけれども、この絵は繊細な線画の墨絵に浅葱等の淡い色調をぼかしで入れた絵。画風はあのアクの強い又兵衛風を残しているけれども色調が違うだけで、がらっと全く異なる上品な印象を与えるところが面白い。


2. 源氏絵の恋のゆくえーー土佐派と狩野派

5. 扇面流貼付屏風 六曲一双
(扇面)土佐派 室町時代
(屏風)海北友松 桃山時代

地の屏風絵と貼り付けられた扇面のそれぞれの作成の時代が異なるのが面白い。地の屏風絵は川の流れが描かれている。屏風絵で川の絵と言えば、最も多いテーマは宇治川だろうか。しかもこの川の流れを描いた線は黒ずんでおり、かつては銀が使用され光る白波が表現されていたのかもしれない。

以前、五島美術館の美の友の会の講演で、「昔は金よりも銀が珍重されており、金閣寺に向こうをはって創建したのが銀閣寺というのも渋好みというよりは、金より銀という認識が背景にあったりした。」という話を聞いた記憶がある。その伝でいくと、銀泥を豊富に使ったように見えるこの屏風絵は、王朝の人々や幕府の将軍等、かなり高貴な人の目に触れることを想定して作られたのかもしれない。そのため、その屏風図がまだ新しかった時に涼しげな光を放っていた銀泥が酸化して黒ずんだ後も、その屏風図は、源氏絵の扇面画を貼り付けられて、扇面流しの趣向の屏風絵として蘇ったのかも。

7. 源氏物語 賢木・澪標図屏風 狩野探幽 寛文9年(1669) 六曲一双 出光美術館

たまたま前日、日本絵巻大成19の『住吉物語絵巻・小野雪見御幸絵』の「住吉物語絵巻」を眺めていたところ、主人公の中将の姫君が、紅の薄様(上から下への紅から白のグラデーション)の色目の襲の装束を着ていた。そして、この屏風絵の中でも六条御息所と明石上が、紅の薄様を着ている。今回展示されている他の絵でも、玉葛や紫上、女三宮等、紅の薄様の襲の装束を着ている女性がいた。逆に花散里や空蝉などは、お能でいう紅無(いろなし、赤味の無い色合い)の装束だった。

家に帰って、以前、五島美術館で開催された「源氏物語絵巻」の展覧会の図録を見ると、襲の色目はもっとバラエティに富んでいて、紅の薄様の襲を着ているのは源氏の恋人達に仕える女房ぐらいであるのが興味深い。

お能若い女性が紅入りの装束を着たり、文楽や歌舞伎で赤姫というと未婚の娘を指すように、ひょっとすると、江戸時代の絵画の文脈では、紅の薄様は、若い匂い立つような美人を象徴する襲の色目なのかも。


3. 伊勢絵の展開ーー嵯峨本とその周辺

12. 伊勢物語図屏風 江戸時代 六曲一双 出光美術館

いくつか伊勢物語の場面が描かれているが、その中で興味深いのは「富士山」。以前、ちくま学芸文庫『増補 絵画資料で歴史を読む』(黒田日出男)という本の中で、山頂に三つの峰がある富士山の図というのは、桃山時代以降と書いてあった。そしてこの絵の中の富士山は、きれいな三つの峰を持つ富士山。またひとつエビデンスを見つけて満足。

14. 伊勢物語色紙貼交屏風 土佐派 室町〜桃山時代 六曲一双 サントリー美術館

朝顔の描かれた屏風絵を地にして色紙を貼り交わされたもの。地の朝顔の絵が興味深い。この朝顔は青一色の小振りの花で、葉も小振り。まるで青い昼顔のよう。平安時代の「朝顔」は、実は今の桔梗とも木槿(むくげ)ともいわれるけど、少なくとも桃山時代には、今の朝顔と同じ花を朝顔と言っていたようだ。

また、この朝顔は、鈴木其一(1796-1858)の「朝顔図屏風」の朝顔と同じ品種のよう。江戸時代、17世紀の初め頃から朝顔には園芸用に多くの品種が生まれたというが、其一はそういった流行のモダンな変化朝顔には目も呉れず、昔ながらの古風な朝顔を描いた、ということのようだ。

それから、この屏風には、今回の展示の中で唯一の、「西の対」の段(業平憧れの藤原高子ちゃん<後の清和天皇の二条后>が京の西の対の屋敷から引っ越した後、業平がその空き家となった家に勝手に上がり込んで、庭先の梅と月を眺めながら「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」と詠って、よよと泣いたというお話)の絵があった。歌の世界では超人気の段なのに、絵画の世界ではそれほどでも無いのかな?

15. 伊勢物語図屏風 伝 俵屋宗達

「高安の女」の段(業平が高安に住む女の家を訪ねようとしたら、女がてずからご飯をよそっている様子を垣間見てしまい、なんと下様な女なんだろうと、幻滅して帰ってしまうというお話)を読む度に、ご飯よそったからって幻滅するなんてひどい、と思っていたが、この色紙絵にある「高安の女」を見ると、確かに王朝絵巻の物語には似つかわしくない場面。何となく、業平の気持ちも少しだけ分かった。

それから、「宇津の山」の絵には、蔦楓の茂る山の中、業平が腰を下ろして白い懐紙に歌か何かを書いている姿がある。尾形光琳が描いた「蔦の細道」は、蔦楓の茂る鬱蒼とした山道だけが描かれた絵で、『伊勢物語』の宇津の山の段の「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り」という文章から生まれた。この伝 俵屋宗達の「伊勢物語図屏風」の「宇津の山」の段の絵を見ると、光琳の「蔦の細道」は、漠然と宇津の山の風景画だと思ってきたけど、本当は、この「宇津の山」の在原業平を念頭に置いた上での留守模様を描いたものだったのかもしれない。


5. イメージの拡大ーーいわゆる<留守模様>へ

30. 宇治橋柴舟図屏風 江戸時代 六曲一双 出光美術館

川に橋がかかり、水車が回っている。川縁には何本のもの柳が、春の新芽、夏の青葉、冬の雪持の風情を見せている。トーハクにある作者不明の「柳橋水車屏風図」や、長谷川等伯やその工房の人たちの描いた「柳橋水車図」等、このモチーフは、桃山時代から江戸時代にかけて、人気があったようだ。

そして、大変興味深いのは、これが、『源氏物語』の「総角」の巻の留守模様となっているという指摘。「例の、柴積む舟のかすかに行かふ跡の白波、目馴れずもある住まゐのさまかなと、色なる御心にはおかしくおぼしなさる。山の端の光やう/\見ゆるに、女君の御かたちのまほにうつくしげにて、限りなくいつきすへたらむ姫君もかばかりこそはおはすべかめれ」の場面がベースとなっているという。

私はこの一連の絵が大好きなのだけど、ますます想像が膨らみ好きになった。絵の向こうに必ず歌や物語が存在するのが、日本の美術の素敵なところ。そして物語は、文字と美術だけでとどまらず、謡や浄瑠璃などの芸能とも響きあって、イメージを広げていくのだ。