国立能楽堂 普及公演 鎌腹 葛城

普及公演  鎌腹 葛城
解説・能楽あんない 夜来る女神~「葛城」と苦しむ神の説話 田中 貴子
狂言 鎌腹(かまばら) 善竹十郎(大蔵流
能   葛城(かづらき) 東川光夫(宝生流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/2048.html

年に一度の田中貴子先生の解説。今年も楽しかった。

典拠が世阿弥が他の曲でも引用している『俊頼髄脳』からの引用であることなどから世阿弥作の可能性が高いものの、現在はこういった推定でしか判定しえないものは、世阿弥作と確定はされないらしい。

先日、謡曲の中で雪の出てくるものにはどんなものがあるだろうと考えてみたが、そのときは「鉢木」と「求塚」、「竹雪」ぐらいしか思い出せなかった。しかし、この「葛城」は雪の出てくる曲だ。「葛城」は、かつては「雪葛城」と呼ばれていたこともあったそう。お能は昔は野外でやっていたので、あまり寒々しい曲は需要が無かったのかなと思っていたけれども、観たことの無いお能の中には他にも雪が出てくるものがあるのかもしれない。

以前、二上山の麓にある当麻寺に行った時、金堂で番をしていたおじさんに話しかけられて、色々当麻寺やそのあたりの話を教えてもらった。そのとき、「葛城山ってどこにあるんですか?」と聞いたら、そのおじさんは、当麻寺の裏手、北西方向にある二上山を指して「ここから…」というと、眼前、南方向までずーっと広がる山並のはずれにまで指の位置を移動させると「ここまで。」と言った。私は葛城山というのは一つの山だと思っていたので、予想外の答えに驚いた。しかしあの時、おじさんは葛城山系はどこか、教えてくれたんだと思う。葛城山系というのは、二上山から金剛山のあたりまでだそうなので、まさにおじさんが指で指し示してくれた山々だったのだ。

「葛城」に出てくる葛城の神は、役行者から岩橋をかけるよう言われたのに、自分が醜いのを恥じて夜しか工事をしなかったので、役行者の怒りを買い、不動明王に策をかけられてしまったということになっている。でも私は、おじさんに葛城山系を教えてもらったとき、「いくら神様だって、こんだけ広い地域に岩橋をかけるのは無理だね。」と思った。どちらかというと、夜だけ頑張って工事しようとした葛城の神よりは、無謀な計画を押しつけて逆ギレした役行者の方が悪い気がするけど、昔の人はそう思わなかったらしい。不思議。

田中貴子先生の解説の話に戻すと、謡曲「葛城」で採用されているエピソードに一番近い説話は、『俊頼髄脳』にあるのだとか。『俊頼髄能』には「葛城の山のいただきより、かの吉野山のいただきまで」岩橋を建設せよ、ということになっている。

また、葛城の神は一言主神ということになっているが、これについても興味深い話をしてくださった。

まず一言主神というのは、その名の通り、何でも一言で吉凶を決する神様だ。しかし、田中先生の話によれば、地元では一言主神というのは、一言だけなら願いを叶えてくれる神様として信仰が厚いのだという。

その一言主神は『古事記』に描かれている葛城山での雄略天皇の一行と出会った際のエピソードが有名だ。天皇のような装束に身を包む一言主神に怒りをなした雄略天皇に対し、「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神、葛城の一言主の大神なり」と言ったという。このときの一言主神は確かに男神だが、田中先生によれば、その後、平安時代の文学を探ると男神から女神に変わっていった様子が伺えるという。

なんと田中先生の恩師でもあった伊藤正義先生によれば、藤原道綱母の書いた『蜻蛉日記』に遡るのだという。葛城の神に関する歌は男女の贈答歌に多いそうだが、それ以外にもあるそうだ。

たとえば『枕草子』で講談社学術文庫でいうと第一七十八段「宮にはじめて参りたる頃」に、清少納言が初めて定子中宮の局に出仕した頃は人目が恥ずかしく夜にばかり出仕し、明け方になると急いで帰っていったので、定子中宮から「葛城の神もしばし」(葛城の神も、少しお待ちなさいな)とからかわれたという場面だ。ここでは女性が女性に対して「葛城の神」という言葉を使っている。

また、『枕草子』では「葛城の神」が男性にも使われていて、同じく講談社学術文庫版の第一五四段(宰相の中将斉信)では、清少納言と仲が良く、いつも軽口の言い合いをしている藤原斉信清少納言との会話で出てくる。ある年の四月の初め、明け方に局を出て帰ろうとした斉信がふと口にした「白氏文集」の詩(「露は別れの涙なるべし」)が実は七夕の詩だったので、清少納言がすかさず「急ぎける七夕かな」とつっこみを入れた。そのとき斉信は思いついた詩を不用意に、よりによって清少納言の前で口ずさむのではなかったと悔しがり、「葛城の神、今ぞすぢなき」(葛城の神は、今は打つ手がない)と言って去っていくのだ。

ほかにも、もう一つ、『枕草子』の中の葛城の神が出てくるエピソードが紹介された。講談社学術文庫版、第一二五段の「頭の弁の御もとより」という言葉で始まるエピソードで、書の三蹟の一人である藤原行成から清少納言宛に手紙がよこされるのだが、そこに「このをのこは、みづからまゐらんとするを、昼はかたちわろしとてまゐらぬなめり」(この下男は、自分から参ろうとは思うのですが、昼は醜いからといって参らないようです)と書いてあるというもの。

このように『枕草子』の時代は、男性でも女性でも昼に出てこない人のことを言う場面で葛城の神を引いたらしい。なんだかとても興味深い。どういう理由で男神と女神を混同したのだろうか。人間というのは、ふつう、男女を取り違えて覚えるということはあまり無いような気がする。そういえば以前、うろ覚えだけど、古代、天皇を中心とする部族が支配する以前の部族は母系社会だった、という話を読んだことがある。そこから想像するに、たとえば、かつての支配階級は女神を祀っていて、天皇を中心とする部族は男神を祀っていて、二通りの神話が異なる集落で別々に語り継がれていてどこかで混乱たとか、そんなことがあったりしたのかも…?そういえば三輪明神苧環伝説も神様が男神だった女神だったりする。

それから、もう一つ面白かったのが、かつては天の岩戸というのは葛城山にあるという共通理解が人々の間にあったというお話。「三輪」を観た時、中世の頃、三輪明神天照大神は一心同体と考えられていたということを知ったが、その三輪山にいた天照大神が隠れた岩戸は葛城山だったということなのだ。面白い…。で、「面白い」という言葉の語源は、『古語拾遺』によれば、天照大神が隠れる天の岩戸の前で皆が芸を見せた時に、天照大神が岩戸をこっそり開けて外を見た時、その光で皆の顔が白くなったから、ということなのだそう。

このような理解は、「葛城」のモチーフになっている『古今集』第二十の大歌所御歌、

しもとゆふ葛城山に降る雪の間(ま)なくすきなく思ほゆるかな

が背景にあるそうだ。「しもと」というのはこの「葛城」の中でも前シテの里女(東川光夫師)がワキの羽黒山の山伏(飯富雅介師)に説明するが、薪となる小枝のこと。また「しもと結ふ」というのは、大辞泉によれば、枕詞で、刈り取ったしもとをカズラなどで結わえる意から、「かづら」にかかるのだそうで、「葛城山」を導いている。「間なく」というのは間断なくという意味だと伊藤正義先生の『謡曲入門』(講談社学術文庫)の「葛城」の項に引かれている毘沙門堂本『古今集注』には書かれている。さらに手元にある岩波文庫の『古今和歌集』の注釈には「間なく暇なく思ほゆるかな」は恋歌か、とある。つまりこの歌は、ある寒さの厳しい冬の日、曇天から絶え間なく降る雪とその雪に覆われ白く雪化粧した葛城山を見つめながら、自分が恋する人を思う気持ちは、まるでこの間断なく降り続ける雪のようだと思った気持ちを詠っているのだろう。多分、恋人が帰ってくるのが待ち遠しいというよりは、相手に想いの届かぬ辛さを曇天や雪の冷たさに重ね合わせいるのではないだろうか。また、純粋な恋心や相手を神聖視するがゆえに自ずと白い雪に重ね合わせているのかもしれない。

そして、この「葛城」の前場は雪の場面で、葛城山に住む女が柴採る道の帰るさ(帰る途中)に、大峰入りしようとしたが吹雪に前後もわからなくなった羽黒山の山伏を見つけ、自分の家に招く。家についた女はあまりの寒さ故に葛で結ってまとめてあった標(しもと)を解いて火に焚いて客僧をもてなそうとする。これらの場面は、まさに「しもとゆふ」からの連想だろう。そしてこの場面は、「鉢木」の前場にも似ている。「鉢木」はこの場面から影響を受けているのだろうか。

また、「しもとゆふ」の歌は、古今集の詞書には「古き大和舞の歌」とある。『謡曲入門』に引かれている『古今集注』には、

大和舞ノ歌ト云者、天照大神アマノイハ戸ニ籠セシ時、神達、天岩戸ニテ歌テヨビ奉シ神歌也。(中略)大和舞トハ日本ノ舞也。伶人ノ舞ハ唐舞也。ソレニ相対シテ大和ノ号アリ

と書いてある。つまり大和舞の歌が葛城山と結びつけられているので、高天原や天岩戸は葛城山にあったという解釈になるらしい。

だから後シテは、

地謡 高天(たかま)の原はこれなれや、神楽歌始めて大和舞いざや奏でん。
シテ 降る雪の
地謡 標木綿花の、白和幣(しらにぎて)

で大和舞(序ノ舞)を舞うのだ。さらに序ノ舞が終わると、

高天の原の巖戸の舞、高天の原の巖戸の舞、天の香具山も向かひに見えたり、月白く雪白くいづれも白妙の景色なれども

という詞が続き、おそらく「しもとゆふ」の雪から由来するのであろう白のイメージが詞章に反映されている。

今回の後シテは天冠に白い長絹に緋大口という出立だった。『謡曲入門』にも国立能楽堂のパンフレットの村上湛氏の解説にも、後シテには葛城の神と天照大神が重ね合わされていると書いてある。

この大和舞を見せることはこのお能の眼目だ。けれども、葛城の神の出現は、単に天岩戸の前で舞われたという大和舞に至るための序段的役割をしているわけではなく、三熱五衰の苦しみを受け、回向を求める神であるからこそ、この大和舞の祝祭性が一層、際立つような気がする。

「しもとゆふ」の歌の「しもと」という詞は、薪にする小枝という意味以外に、昔は鞭をしもとで作ったので罪人を打つための鞭という意味もある。葛城の神が夜しか岩橋を作らないので役行者の怒りを買い、不動明王に策(なわ)で縛られてしまったという伝説は、「しもとゆふ」という詞や、そこから引かれる「葛」という詞からの連想から出来たものかもしれない。このお能の中でも、「さなきだに女は五障の罪深きに、法の咎(とが)めの呪詛をおひ、この山の名にしおふ、蔦葛にて身をいましめて」とある。

さらに「葛」という詞はそのイメージを広げ、

シテ 石は一つの神体として
ワキ 蔦葛のみかかる巌(いわお)の
シテ 撫づとも尽きじ葛の葉
ワキ 這ひ広ごりて
シテ 露に置かれ
シテ/ワキ 霜に責められ起き臥しの、立ち居も重き磐戸の内
地謡 明くるわびしき葛城の、神に五衰の苦しみあり、折り加持してたび給へと、岩橋の末絶えて、神がくれにぞなりにける、神がくれにぞなりにける。

と続く。葛城の神は蔦葛が這い回る岩橋の岩が実は自分自身であるという。その岩が磐戸への連想に繋がり、いつのまにか磐戸の内にいる天照大神と同化する。この流れるようなイメージの連鎖によって天照大神と葛城の神を結びつける手法は素晴らしいの一言だ。

そして、石に這い回る蔦葛というイメージは、禅竹の「定家」を思い出させる。「定家」では式子内親王の墓に定家の式子内親王への執心が定家葛となって這い回るが、式子内親王は『法華経』草木喩品の草木成仏の教えにより成仏する。「定家」の詞章の最後には、

地謡 露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、ありつるところに、返るは葛の葉の、もとのごとく這いまとはるるや、定家葛、這いまとはるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり。

と、葛城の神が出てきて、「定家」が「葛城」を響かせているいることが分かる。

そういえば、お能からは離れるけれども、近松半二昨の浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』の「道行恋苧環」は三輪明神苧環伝説がモチーフのひとつとなっているが、この「葛城」の詞章からも影響を受けていることがわかる。詞章の中に「語るにつらき葛城の、峰の白雲あるぞとも」という部分があり、この部分は明らかに「葛城」からイメージをとっている。この曲は「岩戸隠れし神様は」という詞で始まっていて、三輪明神天照大神が同一視されていたことからの連想で、葛城の神や謡曲の「葛城」へ連想を繋げているようだ。曲の中で語られる夜な夜な恋人の元に現れるという設定は三輪明神苧環伝説とも葛城の神とも共通するものだ。また、後半、それまでお互いを追いかけていた三角関係にある三人の登場人物が突然、物語の筋とは離れて仲良く手踊りを始めるが、「葛城」の大和舞の趣向を採り入れたのかもしれない。

それから、「恋苧環」には、式子内親王の「玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」(新古今・恋一)からとられたのであろう「焦がれて絶えん玉の緒の」という詞があったり、「恋のしがらみ蔦かづら、つきまとわれてくる/\/\」という部分があり、これもまた「定家」を連想させる。今まで何故「恋苧環」には「定家」が採り入れられているのだろうと思っていたけれども、おそらく、三輪明神天照大神→葛城→定家という連想の流れがあるのだろう。

古典芸能は観たり聴いたりするのももちろん楽しいけれども、こんな風に森を散策するように詞章や典拠を辿って行って思わぬ発見をするのは、本当に楽しい。